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米粒で酒を造るのが、私のアルデンテ

パスタってアルデンテよりもうちょい茹でが好きかも、と思い始めた、フリーライターのaoikaraです。

昔「パスタはアルデンテがおいしい」と聞いたときから、自分でもちょっとかために茹でたりして、ほどよく芯が残っている感じがおいしい、と思っていた。けど、それって本当?私よ。

私がアルデンテを知る前は、もうちょい茹でたパスタを食べていたはず。知った途端に「アルデンテがおいしい」になるのは、ちょっと不自然。「アルデンテがおいしい」という情報で「おいしい」と思い込んでいたんじゃないかな。情報を食べてる。ちょっと食通ぶりたかったのかも。

たぶん、ちゃんと茹でられて、もちもちしているパスタの方が私は好きな気がする。とはいえ、お店でパスタ食べるとやっぱりおいしいし、たぶん私がやるときにちゃんとアルデンテできてないから、ちゃんとしたアルデンテはおいしいのだろうけど。


そういうところある。情報が先に来て、自分が感じているよりも、情報を正しいと思っちゃうとき。自分よりも先に別の誰かの感情がなだれこんでくると、自分の感情を引っ込めちゃうとき。

流されるとか、自分を持っていないとか、ブレるとか、私が自分で自分に課題だと思っている姿そのもの。アルデンテじゃないパスタみたいね、私。

でも、アルデンテだからってうまくいくわけでもないしね。パスタじゃなくて、お米のアルデンテはおいしくはないから。パスタだからうまくいく。

最近の私は、米粒そのもののを出していることが多かった。でも、「米なんか出すな」と言われてしまうこともある。

そうすると、そのものを出すのがこわくなる。だから、パンの話なんかしたりする。

いや、このパンの話はずっと頭の中で思っていることで、嘘じゃない。よく考えていること。でも、その瞬間に一番書きたかったことかと言われると、違う気もする。心の兼ね合いもあって書いたから、そういう意味では、その瞬間の一番リアルな感情と言葉なんだろうけど。

ちょっと、私の前にやわらかいパンを置いて、衝撃を吸収したい気分だった。ソーシャルディスタンスじゃなくて、パンディスタンス。パンを隔ててほしかった。

でも、なーんだかもやもやとして。本当は米粒でいきたいのになって。本当は私も大吟醸みたいなこと書きたいのよ。削って、削って、研ぎ澄ませた芯を飲ませたいのよ。それが最高においしいんだから。だけど、芯だけを残す作業は時間と労力がかかるから、米粒だけ置く。

でも米粒だけだと、意図が伝わらなかったりする。私は「米はご飯になる」と伝えたいのに、「米粒だね」と言う人がいれば、「植物の一つ」という人もいて、「ご飯になる前だから意味ないね」と言う人もいて、「米は嫌いだから見たくない」って人もいる。

となると、私の出し方が悪い。そりゃ米粒出したって伝わらない。ぶん投げられるときもある。きちんとどういう意図の米なのか、出し方だって大切だから。でも米は出したい。

ああ、それなら、酒にすればいいのか。これは米だねってわかる人にはわかればいい。私は酒にしようと一生懸命考えるのも、それは工夫として面白い。それで出したいものを出しているけど、わからなければそれでもいい。

米を出したいけど、米をそのまま出す勢いで、酒を造ろう。大吟醸のように削れば削るほど、本来の米粒の存在を忘れてしまうかのように。それでいて、芯そのものであるように。それが私のアルデンテなのかもしれない。

まさにこのnoteがそんな意味。わけがわからない。意味がわからない。それがいい、それでいい。

2021年2月28日(日)

No.798


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