幸せならそれでいいのさ
幸せにはいろんな形があるなと思う、フリーライターのaoikaraです。
一般的に、多くの人が描く、幸せの形ってあると思う。たとえば結婚とか、たとえば子どもを授かるとか、そういうことだけでなくてね、もっと幅広くいろんな幸せの定義みたいなのがある。
それを幸せだと思う人がいてもいいし、そうじゃないのが幸せだと思う人がいてもいいし、どっちもいいと思う。それに対して、常識的じゃないとか一般的じゃないとかで、指を差すのは私は嫌だなと思っちゃう。
「普通はこうだよ」という意見は、その人自身の意見で、その数が多いから常識的とか一般的とかみなされるだけで、根本はただその人の意見だけ。数の多さを自分の発言や意見の強さにして、差した指の圧を強くするのは好きじゃない。
あなたはどう思ってるの?ほかの誰かじゃなくて、あなた自身は?まずはそこから。それから、私はこうだよ、ってやっと話せることなのに、大勢の前に引きずりだして、みんなで指を差して「さあどうぞ」なんて、つらい。
当人や、当人たちが幸せならそれでいい。もちろん、自分の幸せを振りかざして、誰かの犠牲を生んで悲しませているなら、違う方法を探したりお互いのことを考えたりする必要はあると思う。自分だけよければいい、のとは違う。
「私はこれが幸せ」と思っていいし、「私は違うな」と思ってもいい。でも、「私は違うから、あなたの幸せを正しなさい」は違うなと思う。それぞれ違うから、みんな違うから、尊重できて共存できる方法を考えられたらお互いにとっていいよねって思う。
とはいえ、私もね、私と違う“幸せ”の人を見て、「住む世界が違うなぁ」とこっそり心の中で線引きもしちゃうときがあるんだ。排除したり、軽蔑したり、してるわけじゃない。ただ、違うから違う場所にいたいなと思うけど、それってあんまりやさしくないよなぁと思ったりもして。
だから、今書いているのは自分にも言いたいこと。
「私は違う。お互い頑張っていきましょ」と、相手が蔑まなければ私も心からお互いの幸せを願うよ。蔑まれちゃったら、距離を取っちゃうかもしれないね。ただでさえ距離が空く時代、そばにいるならそばにいたい人がいいもの。
でもね、「私とは違うな」と思いながらもね、心から幸せになってほしいなと願っていることもあるんだよ。なんの混じりけもない澄み切った気持ちで、清々しく思うの。そう思えてよかったなぁとも思う。
違った幸せは“認められる”必要なんてなくて、だって誰が誰を認めるっていうのか。認め合えばいいけど、一方的ならそれは違う。
なんだったら誰でも、どんな人でも、みんな幸せになれたらいいじゃん。そしたら嫌なことしようとも思わないし、結果巡り巡って自分の幸せにもなるわけで。
幸せならそれでいいのさ、って言って、祝杯のビールを飲みたい気分なんだな。ま、お酒飲めないんだけど、イメージでね。そんな気分。
2020年11月12日(木)
No.691
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