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自分の顔は、自分で直接見ることはできないのだから

今日は以前に見たり聞いたりしたものを、また見たり聞いたりしている、フリーライターのです。

覚えている内容だから、「そうそう、知ってる知ってる」とか「これこれ!」と欲しいところにぴったりとハマっていく感じがある。知っているものをもう一度やるのは、なぜだか安心する。心地いい。

たまに、こうやって昔を思い出して懐かしがったり、繰り返し見たり聞いたりすることがある。過去のことばかり振り返るのは、今の私が現状を、あるいは未来を見たくないからなのかな。

と、ちょっと待って。

ここから未来から目をそらす現状への自己分析を始めそうだけど、待て待て。それ、決めつけてない?

私は、「なぜこうなった?」と理由を突き詰めようとする思考回路の癖がある。noteでも「なぜ?」を掘っていこうとする内容をよく書いている。でも、事実を超えた“想像”すらも、事実だと思い込んではいない?

たとえば、「Aなのは、Bという理由があったからだ」だとすると、事実はAだけで、Bは私が考えた予想、あくまで想像でしかない。「AはBが理由かも」繰り返し同じように考えていると、「かも」が外れて、「AはBのせい」になり、「BだからAだ」ともはや創造だったBが断定的になっている。

あくまで「かもしれない」という想像だったはずなのに、「自分はそういう人間なんだ」と決めつけてしまっている。

同じことを繰り返すのであれば、たしかに自分が想像している“傾向”はあるんだろうけど、100%は断定できない。でも、気持ちとしては100%だと思い込んじゃってる。でも、違うのかもしれない。


昔、とあるお店で自分用の持ち物を買おうと思って、いくつかの中から1つを選ぶと、店員さんに「無難ですね」と言われた。で、私は、「ああ、私って無難な人間なんだな」と思った。店員さんは悪くないよ。これはちゃんと言わせて。

無難って悪いことじゃない。店員さんだって、別に悪く言うつもりではなく、客観的な印象として、個人的な意見、あるいはお店の人という立場からの意見を言ったに過ぎない。

「これってどんな印象ですか?」と私が聞いたから答えてくださっただけで、今でも悪く言われたとは思わないし、私は別に傷ついてもいなくて、肯定も否定もない「無難なんだな」という受け取り方だっただけ。

私は、ベーシックなもの、つまりは無難なものがたしかに好き。どうなのかなって不安になるより、これなら間違いないって安心したいし。

一方で、とんでもなく個性的なものも好きで、憧れがある。遠くにあるものとして眺めるとか、自分で手に入れても身につける勇気がないとか、自分には落とし込めてないけど。結局、“無難”を身につけて安心したい気持ちはたしかにある。

そんな私の心を見透かされている気がして、“面白みがない”“個性がない”“なのにそうじゃないものに憧れてる”なんて自分を恥ずかしいと思ってしまったのかもしれない。ともかく私は、「自分って無難な人間だ」と思うようになった。

それからしばらくして、全く別の人と話す機会があって、私の見た目や話の内容から、クリエイティブな仕事をしていると思われていたようで驚いた。

そのとき、仕事内容については全く話していない。ライターでもクリエイティブな人はいるけど、私はその位置からは遠くて、全然たどり着けないところにあると思っている。

私は自分を「無難」だと思っていて、「創造性」はむしろ真逆で、端と端にあるような感覚だったから、そんなイメージを持たれたのがすごく不思議だった。で、ああそうかとわかったことがある。


自分に対する他人の評価は、客観的で自分にはない視点があるから、自分では気づいていない自分がわかる。新たな自分が見つかる。

でも、絶対ではない。それぞれの人が同じものを食べても違う感覚を抱き、同じ映画を見ても違う感想を抱くように、評価だってそれぞれの人で違う。

それと同じように、自分に対する自分の評価もまた、自分というブレない視点で生きてきた地盤があるけれど、同じところしか見えないから、全然見えてないところがあるはず。自己評価が合っているとは限らないんだろうな。


だって、物理的にだって、自分の顔って自分で直接見ることは一生できないんだよね。カメラとか鏡を通してじゃなきゃ、自分自身を見られない。

自分を見ようとすると、ありえない角度から見ることになる。ありえない角度から見た自分ってかなりいびつなはず。いびつなのに、誰でも当たり前にそれで生きてるからいびつではないと思っているけど、そりゃいびつなんだよなぁ。

「私はなぜこうする?こうだからだ」なんて断定は、きっとだいぶいびつ。自分のこと見えてないんだから、自分に対するセルフイメージなんて、だいぶ思い込みの部分が大きいんじゃないだろうか。


事実として言えるのは、今日は知ってるコンテンツばかり取り入れて、それがなんとなく心地よくて、安心したってことだけ。それ以上でも、それ以下でもなく、それが今日の私。

まるで小学生の作文のように「今日はこんなことがありました。楽しかったです」「悲しかったです」というのが、本当の自分の正体なのかもしれない。あ、また想像っぽい断定やっちゃってる。気をつけよう。

2021年3月19日(金)

No.817

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