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生きることは書くこと

なんだかんだ書いている、フリーライターのaoikaraです。あと、いつもはタイトルにつけている「No.」を最後に持ってくる試み。さて、


書く仕事をしていても、「書きたくないな」とか「書けないな」ときは当然あるんだけど、結局は書くところに落ち着いている気がする。

「あー、書きたい」と思うことがたくさんあるこの頃で、でも書く時間はなくて、やっと落ち着けてから書くと、時間としては長いことはないのに、見ているものや感じているものがたくさんあるから、驚くほどの量になる。

最近は仕事でもプライベートでも、“誰かに見せる”文章を書いている。とはいえ、だいたいは「自分のため」に比重を置いて。

昔は、特に今の書く仕事を始める前は、ノートだとかスマホのメモ帳だとかに、“誰かに見せない”文章を書いていた。ブログなどで“誰かに見せる”文章を書いてはいたけど。そうではない、本当に「自分だけ」の文章。そう考えると、たとえ誰かに見せなくても、私はずっと「自分のため」に書いているのかもしれない。

この頃書いているのも、“誰かに見せない”文章で、その意識だとありのままに書ける。嘘偽りなく、着飾ってなく、自分が思うものを思うままに、純でつたない部分はつたないままに、汚くて見てられない部分も汚いままに。

外に出かけるとき、良い服を着て、メイクをしてと着飾るように、“誰かに見せる”自分はどこか着飾っている。文章も同じ。“誰かに見せる”文章は、どこか着飾ってる。着飾っている自分も嫌いじゃない。偽りの自分でもない。そういう自分もいる。

でも、家にいるときのすっぴんや、お風呂に入っているときの素っ裸って、落ち着く。脱力しきった自分らしい自分にほっとする。文章も同じ。“誰かに見せない”文章は、抜けきっていて自分らしくてほっとする。

久しぶりに、“誰かに見せない”という意識でたくさん書いて、落ち着いた。仕事でもプライベートでも、誰かに見られていなくても、私は書いて生きているんだなぁ、と実感した。

「生きることは書くこと」

なんて、言葉が思い浮かんだ。これは、とある人の言葉をもじったもの。大泉洋さんも所属する、北海道の演劇ユニットTEAM NACSのリーダー、森崎博之さんの「生きることは食べること」という講演や書籍のタイトルから連想した。キャッチーな言葉が妙に頭に残っていて、ふっと私と重ね合わせ「生きることは書くこと」という言葉にしっくりときた。

「生きることは〇〇」の「〇〇」に当てはまるのは、私は「書く」だけど、人それぞれ違う言葉が当てはまると思う。いろんなものがあっていい。

でも、たぶん、私は、今の私は、これから先の私はまだわからないから今の私は、「生きることは書くこと」だ。今日も、明日も、生きていく私だから。

2020年8月22日(土) 

No.611

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