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No.526 エンガワはヒラメしか知らない

縁側のない家で生まれ育った、フリーライターのaoikaraです。

山口百恵さんの「秋桜」という曲を聴いていた。情景が思い浮かぶ、とても良い歌詞。その中に「縁側」という言葉が出てきて、そういえば私の家には縁側はないから、母のこんな姿を見ることはないな、と思った。

縁側のある家で暮らしたことがない。エンガワはヒラメしか知らない。エンガワおいしいよね。

だから知人のお宅で縁側があったとき、「おお、縁側だ」と興奮した。これが世に行く縁側か、と。たしかサザエさんで見たぞ、あれか、と。

サンドウィッチマンの「興奮してきたな」ばりに興奮する。道民で普段はあまり見かけない瓦屋根や広葉樹林を本州で見かけたときと同じように、興奮した。


「縁側のない家なんてあるんだ!」と言われるのは、まあまだわかる。「そんな家、見たことないから嘘!」と言われたら、えっ、てなる。「縁側のない家なんてかわいそう」とか言われても、えっえっ、てなる。「縁側のない家に住んでいるヤツは総じてクソ」とか言われたら、ひえっ、てなる。

私が「縁側はいいよね」と暮らしたことないのに暮らした風に言ってたら、あれっ、てなるよね。逆に「縁側がある家はクソ!」とか言い出したら、あれれっ、てなるよね。「エンガワはおいしいです!認めなさい!」と主張したら、おいおい、ってなるよね。


縁側のある家で生まれ育った人は家に縁側があるのが当たり前なように、縁側のない家で生まれ育った人は縁側がないのが当たり前、と思ってる。絶対ではないけど。生まれ育った環境が絶対ではないから。経験もあるし。

でも、生まれ育ってきた環境と、これまでの経験から、「縁側のある家は~~」「縁側のない家は~~」というフィルターはどうしてもある。そのフィルターを通すと、見えないものもわんさかある。自分が生きてきて“知らなかったもの”は、見えにくい。

“知らないものがある”のを受け入れるのは難しくて、知らず知らずのうちに線引きしちゃってるときもある。それだけならまだしも、「入ってくんな!」ってされると悲しい。

縁側のある家を知らない私は、実際に暮らしてみてから、「いいものだ」とか「私はなくてもいいかな」と思ったらいい。暮らさないなら調べてみて、「縁側があるメリットはこうなのか、だったら住みたい!」とか「縁側があると大変だな、住みたくない」とか思うのも、あり。

ただ知らないのに知っているように振る舞ってしまうのは良くない。知らないことを知ろうともしないで、「これだから〇〇は…」と蔑むのはもっと良くない。


「知らないものはたくさんある」と自覚すると、まだまだ知らない世界がどんどんやってきて、世界は広いなと実感する。自分にはないものを取り入れてみると、思っているより楽しいよ。

自分にとって“知りたくないもの”を無理に受容する必要はないけど、だからって自分が受け入れないことを肯定したくて、それ以外を全部否定するのは違う。それは同じように自分も否定される世界を作っていくだけだから。自分を否定しない世界を作りたいなら、いろいろと受け入れてみたらいい。

って、私は思う。わざわざ争いたくない。ただ、「ヒラメのエンガワ、おいしいね」って縁側で言えてたら最高じゃんって話です。

2020年5月28日(木)


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