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本音の上から“いいひと”の仮面を被る

喉まで出かかっている本音を、“いいひと”の仮面を被って、飲み込んでしまうことがある、フリーライターのaoikaraです。

言いたいけど言えない。思っているけど言いたくもない。表には出さない本音。だいたいが自分ってどうなんだろうって思う、どろどろとした気持ち。

寂しいから「行かないで」とか、望まない「嫌だ」とか、断りたいときの「ごめんなさい」とか、言いにくい。

言わない理由はいろいろある。言ってしまったら関係が崩れてしまうんじゃないか、自分への見方が変わるんじゃないか、いろんなものが崩壊しそうなこわさがある。

だから、“いいひと”の仮面を被ってしまう。本当は違うのに。でも本音がはあまりにも自分勝手で、口になんかできない。自分が思う“いいひと”の仮面を被って、どんどん自分とは違う人物像を作っていって、自分でも自分の正体がどんどんわからなくなってしまう。

きっと、本音を言うより言わない方が、自分がラクだからってのが一番大きい。結局は自分のため。たぶん、誰かのための優しさなんかじゃなくて、自分に一番優しい選択肢。

だとするなら、

崩壊へのフラグは自分が立てているんじゃないの。

自分で自分の首を絞めてるんじゃないの。

仮面を被ってるのは自分なんじゃないの。

たぶん誰かに見られてるからじゃなくて、自分自身が「こんな本音を抱いちゃってる自分って嫌なヤツだな」なんていう自己嫌悪があるから、見たくないと自分の正体を隠してしまう。

こんな自分って最悪だ、もっと“いいひと”にならなきゃ、もっと“いいひと”なはずだ、で仮面を探してる。続けていると、仮面をつけるのもうまくなる。


でも、隠したとしても、芯の部分で思っていることはじわじわと侵食していって、ふいにこぼれてしまう。抑えようとする反動で、あふれてしまう。

周りから見ると突然に。あふれるってほどだから量も多くて、ときに衝撃的に。でも、突然でも衝撃でもないの。積み重なって、こぼれてる。

失言する人や倫理的に問題のある行動をしてしまう人が、撤回や謝罪をしても繰り返してしまうのは、芯の部分はやっぱり変わらなくて、じわじわ侵食していって、ふいにこぼれてしまうから。

言ってしまった、やってしまったことには眉をひそめたくなるけど、人間的な弱さやもろさは、私だって持っているから、なんだか責められないなと思ってしまう。


なるべくは“いいひと”でいようとしても、抑えつけていればいつかはこぼれてあふれてしまうし、こんな本音は見せたくなかったと激しく後悔して、「あなたは見たくないでしょう?」とまた隠そうとする。

あるとき、「どうしてこちらが見たくないと思うの?」と聞かれて、思考が止まってしまった。

どうして、私の本音を「あなたは見たくないでしょう?」と思ったんだろう。自分が嫌だと思う、自分の本音を隠してしまうのはなぜだろう。

きっと表に出したときに、あからさまに「面倒だな」という態度を取られた経験があるから。自分ではなくても、他人が「面倒だな」と思われているのを間近で見たから。「ああ、面倒になってはいけないな」と体感してしまったから。でも、

「ずっと“いいひと”で楽しくなんて無理。これからだって“面倒”や“しんどい”はたくさんあるよ」

と言われたとき、当たり前のことなのに、私にとっては目から鱗だった。生きていくには楽しく過ごさなければならないと、どこかで思っていた。つらいときも笑顔でなきゃね。悲しい話題は終わらせて、楽しい話をしよう。なんて。

だけど、そんなことはない。人生に面倒やしんどさは山ほどあって、解決すべき問題なんかじゃなくて、それはそれでただ“面倒”や“しんどさ”があるだけなんだなと。気づかなかったけど、ただそれだけなんだ。


それから自分の前向きではない本音を隠さないときもある。つまり、隠すときもある。心の中でカギを閉めている場所はあるけど、ところどころで扉を開いてみてる。

言葉を選ばずに言うと、本音ではクソみたいなこと考えていても、それは私だし。でも、誰かが苦しんでいるのに共感したり、優しくなりたいと思う、“いいひと”の本音も本当にある。

混じり合って、私。どっちも私。

仮面をはがすことが正義ではないけど、仮面の自分にしんどくなるなら、外し方や、仮面をつけない方法を知った方がいい。自分が自分を苦しめているなら、誰も求めていないよと気づいて、自分を楽にしたらいい。

仮面を被るのも、外すのも、誰の手もいらない。私の手で。

2021年3月27日(土)

No.825


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