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私の我慢をなくしたら、別の誰かが我慢するかもしれない

誰かがどうしても嫌だということを、代わりに請け負うことがある、フリーライターのaoikaraです。

きっと逆もある。私が嫌だと思うことを、別の誰かに請け負ってもらっている。そして、別に私もその誰かも、同じように嫌かもしれない。だけど、まだ我慢できる方が我慢をする、そんなこと。

我慢を押しつけ合っているというよりは、我慢しなければならないところでの支え合い、と考えられるかもしれない。絶対に誰かが我慢をしなければならない、というわけではないけれど。

見えている人間関係であれば「支え合っている」のだと感じても、見えない人間関係となると、ただただ自分だけが「我慢している」ような気がしてくるかもしれない。そして、「どうして我慢させられているんだ」と理由がわからないかもしれない。だから、「我慢したくない」と思うかもしれない。


私たちが生きる世界は、私たちが生きる社会は、見えているものよりは、見えていないものの方が断然多い。でも、自分が生きているのは、見えている場所だけで、そうではない場所の想像はしにくい。

今は誰でも情報を調べられるけど、自分から能動的に調べなければわからない情報もあるし、興味関心がなければ情報が発信されていても受信はしないし、つながっているようでつながっていない部分の方がまだまだ多いと思う。


だから、私が「我慢している」と思ったことは、実は自分の目が届かない、どこかの誰かにとっての我慢をなくしているのかもしれない。逆に、誰かの我慢によって、私が心地よく過ごせているのかもしれない。逆に、自分の我慢を止めた瞬間、誰かの我慢が増えているのかもしれない。

だからといって「我慢し続けろ」というのが違うというのもわかっている。自己犠牲にしろというつもりもない。

ただ、私が知っているものとして、大勢の人の我慢が外れたときに、今でさえ居場所が限られている人は、もっともっと居場所が限られてしまって、どんどんその人の世界や社会が狭まっているのだということも、知ってほしい。

でも、その人たちは多数派ではないから、声が届きにくいし、声を上げることさえ躊躇してしまうんだ。本当はいろんな人と共有できるはずのことが、共有できなくなってしまう。そのとき、その瞬間だけのものが、その人にはもう二度とやってこない。

そんな人がいるということも、ほんのちょっとだけでも想像してほしい。

2023年2月4日(土)

No.1491

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