たとえばパン屋の近くで暮らすために働きたい
朝起きたらすぐに仕事が始まる、フリーライターのaoikaraです。なぜなら在宅ワーカーだから。
過去の失敗として、学校へ行けなくなる、バイトへ行けなくなることがあった。心が折れると家から外に出るハードルがものすごく高くなってしまう。とにかく家にこもりたくなってしまう。
仕事を続けるために、心が折れても立ち直りを早くするために、“家から出る”ハードルをなくしてみた。家から出ない仕事をしているのはそのため。
意識的に「家から出ずに働くには」と考えていたわけではなく、「家から出る勇気はないけどなんとか働ける方法はないか」がきっかけで、今につながっている。
在宅のフリーライターをいつまで続けられるかはわからないけれど、続けていきたいとは思っている。
社会人になって「生きていくのって大変だな」と実感した。ただ生活するだけでなく、こんなに税金を払うのかと驚く。誰かの税金で作ってくれたたくさんのもので私は生きてきたから、私も誰かのために、それが社会。自分が誰かのためにと思ったものは、巡り巡って自分のためにもなるはずと思いながら。
不満はないし、納得もしているけど、現実的な金額とした目の当たりにすると「生きていくのにこんなにお金がかかるのか。」とは思ってしまう。
生きていくために、食べていくために働かなければ。私の働き方はまだまだ安定的ではないから、自分の力だけではなかなか生きていけない。まだまだ身近な人に頼っている。
自分の力だけで生きていくために、私は働いているし、どうしたら生きていけるのかを模索しているし、毎日のように「どうしたらいいかな」と将来について考えている。
でも、本当の理想は「生きるために働く」ではなくて、「暮らすために働きたい」。
“暮らす”とは、私なりの解釈として、“生きる”+αした、自分なりの豊かさがあること。
ただ働くだけでなくて、自分がしたい仕事をする。それだけでも+α。生きるための食事を取る。だけじゃなくて、おいしさや栄養を意識した食事を取りたいなら+α。
決まっているものはなくて、暮らし方がそれぞれの人で違うように、人生を豊かにすると感じる+αは、それぞれの人で違っている。
働き方という意味では、在宅という私の形も+αなのかもしれない。仕事の内容としても、私はフリーライターという“書く”仕事が好きで、上を見ているし、前を向いている。
柔軟性がなくてうまくできないことが多い私でも、熱意を持って続けられているこの仕事自体も、私にとっては+αなのかもしれない。
“暮らす”ことは“働く”だけじゃない。大切な人との時間も欲しい。ゆっくりくつろげる時間も、共に行動的になる時間も欲しい。
おいしい魚を食べたい。だから魚がおいしいところに住みたい。魚にも味噌汁にも合う、おいしいお米も食べたい。
おいしいパンも食べたい。パン屋の近くに住んで、パンの香りが届いてきたら幸せだ。かたいパンも、やわらかいパンもある店がいい。よく噛んでおいしいなぁ、ふわふわ楽しんでおいしいなぁ、と言いたい。
おいしいお菓子も食べたい。味覚だけでずいぶん私は欲張りだな。
それから運動する時間も欲しい。ドラマとかバラエティとかYouTubeとか、動画を見るのも好きだから、鑑賞する時間も欲しい。お風呂には脚を伸ばして入りたい。だらだら入りたい。
たまにはもっと特別なこともしたい。旅をするとか、外食をするとか、一生物の家電や服を買うとか。
私の言う“暮らし”はただの欲求かもしれない。贅沢かもしれない。だからって誰かに叶えてもらおうとは思ってなくて、私の力で、私が働いて「暮らしたい」と思っている。
ものすごく稼ぎたいとかは思わないけど、「生きるために働く」だけでもハードルが高くて、生活の心配をしなくてもいいほどは稼ぎたいと思ってしまう。「暮らすために働く」ためには、もっと必要だ。
理想を全て叶えられる力が自分になければ、取捨選択する必要があるし、自分なりに理想と現実のうまい落としどころの“暮らし方”を見つけるのが、それぞれの“生き様”なのかもしれない。
ただ人生は長く、人は変わるし、社会も変わる。でも人生は限りがあって、人として変われないことも、社会として変わらないこともある。
今の悩みは明日になって解決するかもしれないし、あさってには別の悩みがやってくるかもしれない。そうやって働いていくしかないわけで。
さてどうやって生きようか。どうやって暮らそうか。模索の日々はまだまだ続きそう。暮らすために働いて、生きていきたい。
2021年8月9日(月)
No.959
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