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No.557 私が言いたいこと、ユングがもう言ってたわ

高校で倫理の授業が好きだった、フリーライターのaoikaraです。

とはいえ高校は途中でやめちゃったからね、初手の初手しか知らないんだけど、面白かったなという記憶はある。そんな哲学に詳しいわけじゃない私だけど、哲学者はすごい…たぶん。だって、私の心までお見通しだから。

よく自分のことや他人のことや社会のことで、もやんもやんと考えることがあって、それを言葉にできないかなとnoteを書く。最近も「これどういうことなんだろう」「どう書こうか」って思っていたこと、ユングがもう言ってくれてた。一文で。

ということで、ユングの言葉を引用する。

理解できない人のことを愚か者とみなしてしまうことが、人間にはよくある

ほんっっっっっっとう、それっすよね!!!!と激しく同意した。ついつい私もやっちゃう。

例えば、私は「人が多いところが苦手」なんだけど、これを「群れるのって疲れる」「人とつるむのが得意じゃない」と言い換えちゃうときがある。

「人が多い」だと単に人数が多いという意味だけど、「群れる」とか「つるむ」って書くと、なんとなく「一人じゃいられない人」って多くの人と一緒にいるのが好きな人のことを下に見てる感じがする。

なーんか、自分の“苦手”を正当化しようとしてる感じで、自分が“苦手”なことをできる人のことを下げなくてもいいのに、って自分に思っちゃった。これってマウンティングだよね。自分ダサダサ。


私だけじゃなくて、いろんな人のこういう発言を見かけるなぁと思った。好きなものを「これを楽しめない人は人生の半分損してる」とか、好きじゃないものを「こんなの楽しんでいる人はろくでもない」とか。要はユングが言ってるように「自分が理解できない人は愚か」ってことをね、見かける。そのたび、もやもやする。

でも、“理解できない”方が愚かとみなされることが多いよね。わからないのは知識がない、知識があっても実用できない、だから理解できない。それを愚かというんじゃないのかと。

でも自分を愚かだとは認めたくないから、「理解できない自分が悪いんじゃない。理解するほどの価値もないことだ」と思いたい。ある種、自尊心とかプライドとか、心の防衛反応なのかなとも思う。

私がもしもジョブズと同級生だったとして、アップルを創業する前に話を聞いても、正直とうてい理解できなかったと思う。「何言ってんだろ?」って。理解できないくらい、世の中を変えるもんのすごいこと考えるのが天才なわけだから。

自分の理解を超えるって、愚かなわけがないんだよ。ベクトルが自分とは違うだけで、たぶんもんのすごいこと考えてるんだよ。それが天才かどうかはわからないけど、でも自分にはないものを持っていることがたしか。

だから、認めちゃった方がいい。「わからない」って。無知の知ってやつかな?これも哲学者か。ソクラテスか。知らないことを知ってる、みたいな。

「私はあなたを理解したくない」と切り離す意味ではなく、フラットな意味での「私には理解できない」をしっかりと自分で受け止めるのが大事なんじゃないかということ。

「わからない」に上も下もいらない。上から目線で「理解する価値もない」という必要もないし、下からへりくだって「わからない自分が愚かだ」と思う必要もない。ただ「わからない」という事実があるだけなんだと思う。

そして、これもまた上も下もないフラットな意味での「私とこの人は違う」が存在する。「わからない」ってのは、明確にその人と違いがあるってことで、それは相手も自分も卑下する必要がなく、単なる“違い”に過ぎない。


端的にいえば「マウンティングやめとこ」って話。自分の立場や自尊心を守るために相手を下げるのって違うのかな~とね、思う。

蛇足として、最初は「マウンティングする人は〇〇だ」ってタイトルにしようと思ったの。でもさ、このタイトルの付け方もまた、私はマウンティングしている人をさりげなくマウンティングしてるんだよね。

やってんぞー、ダサいぞ、私と。自分の心にもあるんだよね。理解できない人は愚かだ、みたいな理解できない自分を守る気持ちがさ。まずは「理解できない」自分を受け止めてさ、理解しようとしてみてさ、そうしたら相手を指さして「愚か者」なんて思わなくてもいいはずなんだよね。

というわけで、自分に対しても「ちょいと待て」と思った出来事の話。おわり。

2020年6月28日(日)

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