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私の闘うつ遍歴

はじめに。

 私がいわゆる「うつ」と闘い始めて3年近くが経った(2024年7月現在)。
 私はこの3年近くで起こった出来事を事細かに覚えているかと問われると、そこは微妙なところで、また実際に覚えているが思い出したくない出来事も多々ある。
 しかし、こうして筆を握って、否、キーボードを叩いているのは、なにかしらの理由があるのかもしれない。もしくはないかもしれない。
 回りくどい言い方をしているが、要は気まぐれである。この記事は、これから書かれる『私の闘うつ遍歴』というのは、単なる気まぐれで書かれるただの一文章にすぎない。なんとなく「書いてみるか」という気持ちで書かれた文章だ。
 ただ気まぐれとはいえ、どこかに意義があるとは思う。あまり大層なことを書くことは恥ずかしいが、誰かの力になるかもしれないし、読者が読みながら鼻で笑ってくれるかもしれない。
 だからそんな誰かのために書こうと思う。あるいは自分のために書こうと思う。一匹の弱虫の喜劇的な遍歴を。

1.事の発端

 事の発端、つまり私が「うつ」と向き合い始めたのは、思い返してみると約4年前のことになるかもしれない。というのも、後述するが、実際に症状として現れたのは約3年前だが、4年前からその片鱗がないでもなかった。だから、「事の発端」と言われるとその辺りかもしれない。
 2020年(令和2年)、私は18歳の大学一年生だった。
 新型コロナウイルスの影響下で、想像していたキャンパスライフとは打って変わって、家でモニターを見続け、膨大な量の課題を提出するという生活をしていた。
 しかし、後期(9月の20日頃から)になると、週に一度だけ学校へ行く機会ができた。毎週火曜日の2限の時間、私は書道の授業を受けに大學へ行っていた。
 最初こそは、学校へ行ける喜びがあったけれど、3回目か4回目の授業の時に異変が起こった。胸が締め付けられるような感覚がしたのだ。当時、新型コロナウイルス蔓延の真っ只中だったから、「そうか、俺もついにコロナにかかったか」(そんなことを考えながら外出していたのもいささか異常な気もするが)と思って授業を受けていた。
 ただ、この胸の締め付けられる感覚というのが不思議なもので、帰宅をするとぱったりと止んでしまう。いや、この辺の記憶は曖昧だが、確かそうだった。
 そしてある事件が起きた。10月の20日か21日だったと記憶しているが、私は渋谷駅のホームから転落した。副都心線だったか山手線だったか失念したが、確か副都心線のホームだったと思う。普通に歩いていたつもりが、足がもつれて転んでしまったのだ。
 幸いにも、電車が来なかったこと、駅員さんやサラリーマンの方が近くにいてすぐに引っ張り上げてくれたおかげで一命はとりとめたが、あの時はさすがに焦った。ただ、不思議と体が動かなかった。まるで数分後に来る電車を自分の体が待っているような感じがしたのを覚えている。あと右腕と腰がとても痛かった。
 ――今思い返してみると、あの胸の締め付けはストレスから来るものだったのかもしれないと思う。疲労困憊とでもいうのだろうか。だからこそ、私は渋谷駅のホームから落っこちた。
 ちなみに、線路からは落っこちこそしたが、1年次は単位を一つも落とすことなく2年次を迎えることとなる。


2.母との関係

 2021年(令和3年)4月無事に(?)2年次を迎えることになった私は、教職志望であったこともあって学校へ直接行く機会も増えた。たしか週に2回だったと思う。
 この頃、いや正確にはもう少し前だった気もするが、私は既にいわゆる病んでいた。
 高校時代の後輩兼元カノAに「死にたい」とか「消えたい」と愚痴を漏らし、数時間通話につき合わせる始末である。今考えてみると我ながらかなり迷惑をかけたなと思う。
 それから、学校のカウンセリングルームを使うようになった。週に一回、たしか火曜日に授業が終わった後、Tさんに学校のことや家庭のことなど色々なことを相談した。
 ちなみに、なぜ順風満帆なキャンパスライフ(と言えたが微妙だが)を送っていた私が、唐突に病んでしまったかというと、一つに親との関係がある。
 当時、親はなんの仕事をしていたか忘れたが、その仕事を辞めて占い師になると言い始めた(占い師の方を否定しているわけではありません)。そして実際に仕事を辞めて、占い師の資格を取るための通信教材を多額で手に入れ、占い師になる勉強をなんとなくボヤボヤとしていた。私は、これが不安で不安でたまらなかった。
 そりゃ必死に打ち込んで勉強をし、本気で占い師になってゲッターズ伊吹くらいになってくれるほどの真剣さがあれば私も応援したと思うが、実際、前述のようになんとなくボヤボヤと勉強をしていた、というかただ教材をペラペラとめくるだけで勉強なんてしていなかった。毎日なんとなくタロットカードをめくる。そんな感じだった。
 余談だが、この時の母の影響で私も少しだがタロットカード占いができる。

当時から使っているタロットカード。かなり年季が入っている。

3.適応障害

 5月になった時だった。まさに5月1日、左肩に大きな発疹ができた。痒みがあったように記憶しているが、この発疹が次第に体中に広がっていった。また、痒みだけでなくビリビリとした痛みに襲われるようになった。あまりに痛みが酷くて授業にまったく集中できなかったのを覚えている。
 そして5月14日、発疹がどうなっているのか自撮りをしてみたところ、なにやら普通の発疹じゃないぞと思い、翌日、皮膚科に行くと「帯状疱疹」と診断された。皮膚科のO先生曰く、かなり危険な状態だったらしい。O先生には学校を少し休んだ方が良いのではないかと提案された。
 そんなこんなで、さらに翌日、事件は起きる。
 土曜日の授業を終えて、大學から帰ってきた直後だったと思う。自分の中でなにかが弾けてしまい、本棚にあった教科書をすべて床に放り投げて油をかけて火をつけようとした。教科書を床に放り投げた時点で母に叱られ未遂に終わったが、なんとなく「すべてを終わりにしてやる」みたいな気持ちがあった。
 その後、5月17日、私は精神病院へ行くことになった。
 診断結果は『適応障害』。精神病院の先生には、前期はもう学校へ行かないこと、後期は休学することを命じられた。
 この時、なにを考えていたか。とにかく今後どうなるのか不安で仕方がなかったのと、もう消えてしまいたいと思っていたのはたしかだが、それ以上のことは覚えていない。

5月1日にできた左肩の大きな発疹。


帯状疱疹の自撮り。若干グロッキーだったのでモザイク処理をしております。

4.裏切りと休学

 結局、1年次は優秀だった私は、2年次前期の単位をすべて落とし、さらに秩父に行った写真を信頼していた後輩Aに送ったところLINEをブロックされるなんてこともあり、もうなんか、色々とどん底だった。後輩AにLINEをブロックされた件については、ハッキリとした理由は分からないものの、他の後輩から「もう関わりたくないらしいです」とだけ伝えられた。
「いつでも先輩の味方です」と言ってくれていたのに。この一件以降、私は今でも若干人間不信である。
 それから、幼少の頃から通っていた内科に行き、安定剤と抗うつ剤を処方してもらうようになった。なぜ精神病院に行かなかったかというと、単純に精神病院の先生のことが嫌いだったからである。
 そうして薬を飲みながら廃人のように一夏を過ごして、9月4日、私は雨の中大學へ休学届を出しに行くことになる

休学届を出した直後の写真。傘を忘れている。

5.「うつ」

 大學へ休学届を出してから一カ月後、内科ではなくちゃんとしたクリニックに通うことになった。というのも、この時期には母も精神的に体調を崩していた。その時、本当にたまたま当時住んでいた家から徒歩で行ける距離にクリニックができたのだ。そして母がそのクリニックへ通い始め、なかなか良いクリニックだということで、私もそのクリニックへ通うことになった。内科と違って、やはりちゃんとしたクリニックは薬の処方の仕方も相談内容もいい意味でまったく異なった(当たり前なのだが)。ちなみに私が「うつ」と診断されたのはこのクリニックで、今でも同じクリニックに通院している。
 
 この辺りの期間の記憶は曖昧だが、まず本が読めなくなった。今も読めない。字が読めないというか、何回読んでも頭に入ってこないのだ。物書きにとって致命的である。
 あとは、友人をイッキに失った。連絡先をすべて自分で消したのだ。巷では「人間関係リセット症候群」なんて呼ばれているやつだな。ただ幸いだったのは、ネットの友人関係は維持していたこと。これは今でも良かったと思っている。
 ……ただこの連絡先を消したきっかけを思い出すと今でも辛くなる。私には幼馴染の親友がいた。どんな内容のLINEを送ったのか失念したが、その親友に「死にたくてつらい」みたいなニュアンスのLINEを送った際に「だから?」、「どうしてほしいの?」といった返信が返ってきたのだ。今考えてみると、親友に私の気持ちのすべてを理解できるわけないし、理解してもらおうというのもおかしな話なのかもしれないが、当時はこの返信がとてつもなくつらかった。
 その時、あまりのつらさにスマホを投げたのを覚えている。そして連絡先を消した。
 もう誰も私のことなんか理解してくれない。理解しようともしてくれない。味方なんていない。そんなことを考えながら。

6.成人式

 連絡先を消して、孤独となった私は抜け殻のような日々を送っていたが、ある一大イベントにぶち当たった。
 2022年(令和4年)の1月10日、成人式が行われたのだ。
 体調も悪かったし、あまり乗り気ではなかったが、人生に一度きりだしなんて思って行くことにした。
 ……この成人式がまぁつまらないもので、式が終わったと同時に帰宅した。
 三列に整列させられていて主催者側が「右の列から退場してください」と言っているのに、真ん中の列のど真ん中にいた私は即座に立ち上がって、誰よりも早く式場を後にした(体調が悪かったのもあったが)。これは後から聞いた話だが、同級生たちは私だと気づいていたらしく、私の突飛な行動に若干引いていたらしい。

 成人式も終えて、私はある一つの決断を迫られることとなる。
 それは、学校を続けるか、辞めるかだ。
 結果から言ってしまうと、私は大學を辞めた。理由は……正直今でもハッキリとしていない。また体調を大きく崩してしまうと考えたのか、学問が嫌になったのか、大學が嫌いになってしまったのか。おそらくどれも違うと思うが、ともかく大學を辞めて、当時20歳で高卒のニートになった。
 この時のことで一つ覚えていることがある。それは大學に入るのは難しいのに、辞めるのは随分とあっさりしているなということだ。たしか書類を数枚書いて印鑑を押しただけでハイおしまいだった。
 世の中というのは不思議なもんである。


7.私の闘うつ遍歴

 それからしばらくして小説を書き始めた。
 記録は残ってはいないが、2022年の5月末くらいのことだったと思う。原稿用紙を買ってきて思いのままに文章を書いた。それが処女作の『禍の中』である。非常に短い文章だが、当時の私にはこれが限界だった。

 その後、経済的に不安定になった私と母は、母の姉(叔母)の家に居候することになるのだが、約半年で追い出され、当時築58年のボロアパートに住むことになる。
 この頃から、本格的に小説家になろうと決心をして小説を書き始めた。
 カクヨムという小説投稿サイトで行われていた「第3回角川武蔵野文学賞」にとある作品を投稿した。
 結果は、不正扱いを受けてアカウントごと作品も消されてしまったが、手ごたえはあった。
 それからは体調が良い日は執筆、体調が悪い日は療養するという生活をすることになった。

 そんなこんなで現在に至る。
 というか、ここまで書いたものを読み返してみたが、あまり「うつ」と闘っているという感じの文章ではないな……。
 ともかく、前述のとおり、今でも体調が良い日は執筆をしたり資料を漁り、体調が悪かったり気分が落ち込んている日(基本この状態だが)はベッドに横になって休むという生活を送っている。
 自殺未遂をしたり、リストカットをしたり、急な落ち込みに襲われたりしているが、先日、とあるライトノベルの新人賞の一次選考を通過した。これはとても嬉しかった。

 唐突だが私もいつまで生きているかわからない。急に病気になって死んでしまうかもしれない。だけど、それまでには「うつ」を克服して三流の作家くらいにはなりたいなんて思う今日この頃である。


#創作大賞2024 #エッセイ部門

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