【短編小説】桃源郷

本物の桜を見たのは初めてだった。
詳しくないのでよく分からないが、この甘い匂いは、小さな蕾をふりふりと揺らしている、この木からだろうか。

この道を見つけたのは、1ヶ月ほど前だった。
なんとなく、同じ道を歩くのに飽きた私は、いつも曲がる小道ではなく、ひとつ前の、より細い小道に入ってみることにした。

少し進むと、先を塞ぐように枝が広がっていたので掻き分けると、その先は道ではなく、ちょっとした広場のようになっていた。 
ここで行き止まりかと、折り返そうとした時、ほのかに甘い匂いがした。
誘われるように匂いをたどり、広場の端から下を覗くと、そこには、濃淡さまざまな桃色が見えた。

流れる川からは、さらさらと音がした。
むさ苦しい山に浮かび上がる、桃色の小さな世界は、自分がどこかで寝こけて、夢でも見ているのかと思うほど、幻想的だった。
私は、階段のように連なる石を慎重に降りて、その世界に近づいた。

1番下まで降りると、屋根付きのベンチがあったので、腰掛けた。

「これが、桜か」

本物の桜を見たのは初めてだった。
まだ満開ではないようで、ぷくぷくした蕾もいくつかあった。
そしてよく見ると、足元には小さな薄青色の花が咲いている。

10本ほどの桜の木が並んだその光景は、質素ではあるが、私は、ずっとこの場所を求めていた気がした。
素朴な幸せを見つけることは、実はとても困難なことである。

絵を描くのが趣味の私は、この光景を絵に残すことにした。

次の日、私は友人に、その場所のことを報告した。

「おい、お前。野田山の小道の奥に桃源郷があるのを知ってるか?」

「桃源郷?あれは、心の中の世界だろ。
山で転んで頭でもぶつけたか。
野田山は、そのでこぼこ道から地獄の山と呼ばれてるんだぞ。桃源郷とはほど遠いような気がするが」

「私もそう思っていたんだ。しかし、確かに桃源郷はあった。桃色と薄青色の花が、ひらひらと甘い匂いを撒き散らしながら私を誘っていた。そうだ、絵を描いたんだ。見せてやろう」

私は描いた絵を友人に見せた。

「あぁ。ここは、石段を降りたところにある川のところだろう。知ってるよ。行ったこともある」

「お前、あそこを知っているのか。なぜ知らせなかった」

「そこらの道の大して変わらないよ。桜があるだけさ」

「あんなに素朴で美しい場所を、私は他に知らない」

私は、春が終わり、なんの用事もなくても、その場所に行った。
葉桜も、それはそれで美しかった。
夏の猛暑が続く頃、川のせせらぎを聞けば、心は涼しくなった。
私は絵の具を持っていき、時間を忘れ、何枚もの絵を描いた。

そして、半年がたった。


「そういや、最近絵を見せなくなったな」

「あぁ、あの場所にはもう行ってない。ひどく失望した」

「何があった。数ヶ月前は、桃源郷を見つけたと、ずいぶん興奮していたようだが」

「暖かい時は良かったさ。そこには美しい植物と甘い匂いが広がって、眺めているだけで幸せだった。しかし、寒くなった途端どうだ。
まるで地獄へ続く道かのように、草花はすべて枯れ、のぞいた川の水はひどく濁っている。ぬかるんだ地面は、ぐねぐねと歩きにくい。こんな場所だとは思ってもみなかった」

「秋はそういうもんだ。それに、あそこの川は、もともと水が汚いことで有名だ。君が知らなかっただけさ。道も以前から、ずっとぐねぐねだ」

「嘘だ。あんな姿を見たのは初めてだ。裏切られた気分だよ」

「君が、周りにある花だけ見て楽園だと勝手にイメージをつけ、本当の姿を見て、勝手に失望しただけだろ。あの場所は、前から何ひとつ変わってない」

「はぁ、、、残念だ」

「まぁ、そう落ち込むな。自分の理想的な存在を見つけると、良いところばかり見えて、悪いところには気づきにくいものさ」

「そういえば、以前交際していた女性とも、同じようなことがあったな」

友人は微笑んだ。

「まぁ、人間なんて、みんなそんなものだよ」

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