【短編小説】隣の家族


ブロック塀の穴から見えた隣の芝は、青ではなく枯れていた。

「みっちゃん!いってきまーす!」

扉の外から元気な声が聞こえてきた。
みっちゃんというのは、多分、彼女の母親の名前である。
しかし、本当の母親ではない。
彼女は、里子として隣の家族に迎えられており、血縁関係は一切ないのだそうだ。

なぜ、ただの隣人である私がこんなことを知っているのかというと、自分の母親が夕飯中によく噂しているからである。


「まぁ、あんな大声出して。
らんちゃん、いってらっしゃい」

「いってきます。お母さん」

私は靴べらを使い、革靴を履いた。
赤く染めた口元、真っ黒な髪を結った、白いエプロン姿の母親がそれを受け取った。

私は彼女を嫌っているわけではないが、なんとなく、母親が近づいて欲しくなさそうなのは感じていた。
彼女は明るい人間であるが、母親はそれを"健気だ"と言っていたからである。


ある日、彼女が風邪で学校を休んだ。
私は、お便りを家に届けてほしいと、担任から封筒を預かった。

彼女の家に着くと、しんと静かだった。
ブロック塀の穴から見えた庭の芝は、青ではなく枯れていた。
インターホンを押すと、玄関からひとりの年配の女性が出てきた。
初めてちゃんと見たが、きっと、この女性が"みっちゃん"である。
ふくよかな体型に少し灰色がかった傷んだ髪をひとつに束ね、パジャマのような服を着ていた。
もしかしたら、それほどの年齢ではないかもしれないが、私には年配の女性に見えた。


「あら、お隣りの!」

「はい」

「わざわざお見舞いに来てくれたの?ちょっと待っててね!」

私がお見舞いに来たと勘違いしたみっちゃんは、少し嬉しそうだった。

ちらっと覗いた廊下は薄暗く、ゴミ袋が並んでいた。
玄関の植木鉢は割れ、枯れ果てた庭には赤茶色の洗濯物干しが立っていた。


私の母親は、生け花教室で講師をしており、趣味はピラティスとガーデニングとお菓子作りである。
庭の緑は青々としていて、母親の好きな季節の花が植えられている。
平日はお手伝いさんが来て、家の隅々まできれいにしてくれている。
こうして見ると、今の私の環境はとても恵まれているのだと思う。
そして、私の母親は"見え方"をとても気にする人間なので、みっちゃんを遠ざけている理由もなんとなく理解できた。 


少しすると、バタバタと階段を降りてくる足音が聞こえて、寝起き姿でほっぺを赤くした彼女が出てきた。
私を見つけて、目を丸くした。


「岡田さん。びっくりした。どうしたの?」

「これ、お便りです。先生が届けてって」

「え!それで寄ってくれたの!?ありがとう!」

「いえ。体調、大丈夫?」

「うん、もう熱はないの!昨日は一晩中、みっちゃんが手を繋いでいてくれたから、すごく安心して眠れて」

「そう」

「あ、ごめんね!わざわざ寒いのに!ありがとうね!」

彼女は、指で鼻を擦り、へへっと笑った。

なぜだろう。
血の繋がっていない母親と、大してきれいでもないこの家に暮らしているのに。
なぜ、こんなにも幸せそうなんだろう。

「私は、風邪をひいて、母親に手を繋いでもらったことはないの」

「え?」

そして私は、"ゆっくり休んで"と伝え、お手伝いさんの待つ家に戻った。


しばらくすると、街はクリスマス一色になった。
24日は毎年、家族揃って外食をする。
私は今年も、新品のワンピースを着てレストランで食事をし、タクシーで帰宅した。
街はすっかり白く染まっている。
タクシーから降り、一瞬で冷えた両手をこすり、息を込めた。

その時だった。
夜道を、手を繋ぎながら歩いてくる人影が見えた。
隣の子はピョンピョンと飛び跳ねながら、大きな声で歌っている。
その声で、私はその人影が誰なのかすぐ分かった。

「さぁ、早く入りましょう」

母親は私の肩を少し強く握った。

家に入る直前、スローモーションのように見えた。
彼女は、みっちゃんと手を繋ぎ、もうひとつの手にはフライドチキンが入っているであろう箱が握られていた。
繋いだ手をぶんぶんと大きく振る彼女は、とても幸せそうだった。

扉を開けると、玄関は暖かかった。
お手伝いさんが暖房を入れてくれていたようだ。
手洗い場の鏡に映る自分の顔を見つめる。

素敵な洋服を着て、フランス料理を食べている私より、彼女の方が幸せに見えたのはなぜだろう。


「お母さん、手が少し寒いです」

「あら、それは大変。暖房の温度、上げますね」

「はい。おやすみなさい」


その夜はずっと、あの一瞬の光景が心の真ん中に浮かんでいた。


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