見出し画像

第29回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~仙骨は重力を知らなかった~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第二十九回



手直し期間が、
予定よりも短くなるのは
いつものことだった。
予定では土曜日も出社して
手直しするはずだったが、
運よく金曜日の午後には
すべての作業を終えることができた。
品管グループの手際の良さと
指示出し能力の高さのおかげでもある。
特に吉岡さんの
普段の仕事ぶりからは
伺い知ることのできない
危機管理能力の高さには、
脱帽させられる。


今日は久しぶりに昼過ぎまで寝ていた。
昨日の手直し後にあった
トラックへの積荷作業の影響で、
全身に疲労が溜まっていたのかもしれない。
エアコンの効いた部屋で
寝続けていたせいか、
喉に痛みを感じた。
僕は寝ぼけ眼のまま台所へ向かうと、
蛇口をひねって
手柄杓(てびしゃく)でうがいをした。
ちょうどそのとき部屋の呼び鈴が鳴り、
僕はタオル片手に玄関へ向かった。
ドアを開けると
寝ぐせが付いたままの田所さんが
エコバッグを持って立っていた。
彼は土曜日のこの時間になると、
昼食を持って僕の部屋を訪ねて来る。

半年程前だっただろうか、
丁度今ぐらいの時間に近所のスーパーへ
総菜を買いに行った際に
田所さんと偶然鉢合わせになった。
それ以来、何故だか僕の部屋で
昼ご飯を共にするのが習慣となっていた。

「イカ飯、買ってみた」

田所さんは
手にしていたエコバッグを持ち上げて
朗らかにそう言った。
「お邪魔します」と言った時点で、
すでに台所に立って鍋に手を掛けている。

「駅の南に
 スーパーなかよしってあるでしょ?
 そこで買ったんだ」

田所さんは嬉しそうにそう言うと、
シンクに置いた片手鍋に水を注いだ。
彼はエコバッグから
真空状態にパウチパックされたイカ飯を
二袋取り出すと、
まだ水の溜まり切らない鍋に投入した。
僕は、使い捨ての総菜容器に詰められた
温かいイカ飯を想像していたので
若干驚いた。

「湯煎して温めるって、
 なんかレトルト感ありますね」

僕が思ったことをそのまま口にすると、
田所さんが急に大きな声で
「え!」と叫んだ。
僕の言葉に
そこまで反応する要素が
あったのだろうかと驚いていると、
田所さんは
つい今し方水に浸したばかりの
パウチを持ち上げて、
封のしてある角を
まじまじと凝視しはじめた。
そして何も言わず
ただ息を吐くように力無く笑うと、
またパウチを鍋の中へ戻して
蛇口の栓を閉めた。

「賞味期限がさ、
 切れちゃってるけどいいよね」

いいよねと訊ねながらも
既に鍋を火に掛けている。
一応僕は
パウチに刻印された日付を確認した。
賞味期限日は
一週間ほど前の日付けになっていた。
「今買って来たんですよね?」
と僕が訊ねると、
田所さんは「そうだよ」と言って
クスクスと笑った。

「スーパーなかよしって、
 家族経営だよね。
 一応スタッフは名札付けてるんだけど、
 みんな苗字が南なんだよね。
 店長のお父さんと、
 レジしてくれてる娘さんなんて
 同じ顔してるんだもん、
 髪があるかないかの違いだけ」

田所さんの朗らかな笑いが
さらに加速する。

「スーパーだけじゃなくって、
 下宿もやってるみたいなんだよ。
 店の二階に中年の男の人が
 住んでるっぽいんだけど、
 その人、店は手伝わないし
 顔も誰とも似てないから、
 多分下宿生だと思うんだよね。
 中年だけど」

田所さんはそう言って大らかに笑いながら、
一緒に買って来たらしい二つのプリンを
冷蔵庫に仕舞った。
沸騰していく鍋のお湯を見ながら、
レトルトって
水の状態から茹でるんだっけと、
田所さん的にはどうでもいいであろう疑問が
頭に浮かんだ。
僕は調理する田所さんを尻目に、
洗濯機を回したり、
部屋の片付けをしたりした。


小さなテーブル上に昼食が整うと、
僕らはどちらからともなく席に着き、
「いただきます」と言って
イカ飯に箸を伸ばした。
輪切りにして出してくれたイカ飯を
ひとくちで頬張る。
甘辛いタレの味が
イカの歯ごたえと共に口の中に広がる。
イカの旨味まで
しっかりと吸ったモチ米を噛むほどに、
次のひとくちを
頬張りたくなる欲求に駆られる。

「旨いなあ」
「旨いですね」

二人して端的な感想を口にしながら、
黙々と頬張る。
そういえば僕は今、生まれて初めて
イカ飯を食べたんじゃないだろうか。
初めて食べるイカ飯が
日常の只中に突然やって来たものだから、
特に何の感慨も抱かぬまま
箸を付けてしまった。
僕にとっての
イカ飯の味のデフォルト設定が
今日田所さんの買ってきてくれた
パウチ入りのイカ飯になったことが、
なんだか心地よかった。

田所さんはといえば、
さっきからイカ飯を食べながら
一点をじっと見詰めていた。
視線の先には、
僕が会社から持って帰って来た
飼育ポットが転がっている。
手直し続きだったため、
会社ではろくに
蝶の研究も出来ていなかったので
持って帰って来たのだった。

筒状の筒部分が透明になった入れ物に、
微動だにしない蝶が
入れられているそれは、
ちょっと不可解な様相を呈して見える。
なので僕は、一応田所さんに向って

「会社でつくってる
 飼育ポットっていう商品なんです」

と、訊かれもしないのに説明した。
それを聞いた田所さんは、
なるほどといった調子で
僕に何度か頷いて見せた。

「室圧変動システムを搭載したポットで、
 充電すれば飼育ポット内で
 蝶が舞う仕組みなんです、
 蝶は黄鉄鉱から作り出した
 新素材でできてます
 超新蝶と呼んでいます」

僕がさらに説明を加えると、
「ちょっと触っていい?」と言って、
飼育ポットに手を伸ばした。
充電が残っていたのか、
田所さんが電源を入れると、
中の蝶がパタパタと舞い上がって
ポット内を飛翔し始めた。

感心した様子で
蝶の舞を見詰めている田所さんが、
いつものことながら突然、
意味不明なことを言い始めた。

「この蝶、もし、僕の仙骨辺りの骨の中で
 飛ばせたなら、
 きっともっと容易く
 飛んでいてくれるだろうなあ」

それを耳にした僕は、
取り敢えず次の言葉を待った。

「僕、朝飯食べないから、
 起きるとまず歯を磨くんだよね。
 洗面台の前に立って歯を磨いてると、
 必ず仙骨が
 浮きそうになる感覚があるんだよ。
 実際仙骨の浮遊力のせいか、
 足が地面から
 離れちゃいそうになるくらいなんだよ。
 だから慌てて踏ん張るんだよね。
 毎朝だよ?
 でもまあそのお陰で寝ぼけてた頭が
 ようやくすっきりするわけなんだけど。
 堀戸君もそういう経験ある?」

大きく澄んだ目で、
なんの蟠(わだかま)りもなく
訊ねてくる田所さんに、
再び心地よさを感じた。
僕は極めて端的に、
「そういう経験はないです」
と答えるに留めた。
田所さんは「そうか」と言って
僅かに微笑むと、
話の続きに戻っていった。


「どうあることが正解かを急かし過ぎて、
 結局早まった認識の連続に
 翻弄されるがまま、
 僕はたった今でさえもこうやって、
 重力を感じて座っているんだよ。
 僕の仙骨は、重力を認識する前の、
 真に均衡した圧の在り方を
 覚えているのかもしれないのにね。
 本来すべては真空のはずだ。
 真空とそれ以外に分ける意味は無い。
 僕も、堀戸君も、
 この部屋のどこもかしこも、
 変動する室圧内も、
 その中に配置された作り物の蝶も、
 同じく物質で満たされた真空なんだ。
 グラデーション状に
 存在する真空において、
 万有は、意図された設計に基づき
 電磁場を自在に流動する。
 すべては引き合う、もしくは反発し合う
 密度の中に存在している。
 混沌の中から生じた意志は、
 ひとつの秩序だった状態へと導くことで、
 それ相応の次元へと行きつき、
 質量に保全されたエネルギーを獲得する。
 それが、三次元空間にプロットされた
 質量のルーツだとしたらば?―
 重力の量子化も、
 視認され得た状態を
 下敷きにしていく科学の恣意によって
 明解を模索する。
 例えば、僕と同じように
 既定の概念を網羅している
 任意の技術者がいたとして、
 彼が一種の有り触れた認識に基づいて、
 製品を生み出し続けたならば、
 本質を踏み外しているかもしれない
 共通認識は、
 強化の一途を辿りかねない。
 早まり続けてきた認識の連続上に
 成り立った科学なんてものは、
 実に心許無いものかもしれないのにね。
 僕はね、次の朝こそは、
 仙骨の浮くがままに
 任せてみようと決心して、
 やり過ごしてしまった歯磨きの朝に
 誓うんだけれど、
 一晩寝た翌朝、
 起きて寝ぼけたまま歯を磨く段になると、
 そんな決心、
 忘れちゃってるんだよ・・・」


田所さんはそう言い終えて、
手にしていた飼育ポットを
テーブルに置くと、
慈しむようにそれを見詰めた。
僕には分かり得ることのできない話
のようにも思えたが、
ただ「作り物の蝶」というのフレーズが、
僕の耳に妙に纏わりついていた。
真空と真空ではない状態という具合に
分け隔てる意味がないのならば、
作り物と作り物ではない状態とを
分け隔てる意味もないと
結論付けることはできないだろうか。
田所さんの真空理論を借りるのであれば、
作り物と定義した時点で、
すべてが作り物ということになる。
僕も、超新蝶も、庭に舞う蝶も、
田所さんも、飼育ポットも、
すべて作り物だ。
田所さんは敢えて
この飼育ポットの中の蝶のことを
「作り物」と修飾しているから、
田所さんの中では、
作り物とそれ以外のものという
隔たりを設けていることになる。
蝶には生命を有する蝶と、
作り込まれた生命のない蝶と、
二つが存在していることくらい
誰の目にも明らかではある。
けれどそれは、
田所さんの言うところの
「早まった認識」の可能性もあるのだ。
生命を有しない蝶として
作ったというだけであって、
実は僕には計り知れない何かを
備えてしまった特異な蝶
である可能性だってあるのだ。
現時点では
生きていると認識されている蝶ですら、
何者かによって
「人間には生きているように見える蝶」
として
作成された可能性も考えられなくはない。


そんな考えが僕の頭を巡ったが、
田所さんの言わんとするところは、
そんなことすら
凌駕したもののようにも思えた。

「そう言えばさ——」

僕の雑感をよそに、
田所さんはイカ飯を摘まみながら
今の話題とは全く関係のなさそうなことを
話し始めた。

「物置部屋になっちゃってる
 一〇三号室あるでしょ?
 トキさんがさ、
 そこも空き部屋にして
 貸しに出そうと思ってる
 って言ってたよ」

そう言い終えると、
思い出したように立ち上がって
台所へ向かった。
冷蔵庫からプリンを取り出しながら
「僕は大賛成って言っといたよ」
と僕に向って闊達な調子で宣言した。


田所さんの買って来たプリンは
固くて素朴な味がした。
「旨いですね」と素直に言うと、
「だなあ」という彼の屈託のない声が
部屋に響いた。


田所さんが帰った後、
僕はしばらくの間、
テーブルの上にひっそりと佇む
飼育ポットを眺めていた。
田所さんの置いて行った言葉が、
まだ部屋の中で反響している気がした。

「僕は、本質からはずれてしまった?」

何気なく発した自分の言葉は、
懐かしい浮遊感を伴って僕の耳に届いた。

視線の先にある飼育ポットの中の超新蝶は
相変わらず微動だにせず
ポットの底に横たわっている。

「いつも重箱の端を
 つついているだけのようだ」

再び聞こえた声は、
僕が発したものなのか、
もしくは心の声なのか、
判然としなかった。
思考する気力が萎えていく。

「混沌の中…生じた意志……
 三次元空間に…質量の…エネルギー……
 踏み外している…連続上に……
 そんな決心、
 忘れちゃってるんだよ……」

部屋に残響していた田所さんの声が、
僕の頭上に重力を伴って降りかかってくる。

目の前の飼育ポット内では、
静止していたはずの超新蝶が、
両翅(りょうばね)をふわりと持ち上げて、
ポットの底から
浮き上がっていくのが見えた。
浮き上がっては、沈み、
底を掠めては、天井へと舞い上がり、
不安定な浮揚を繰り返していたかと思うと、
超新蝶は突如として、
ポットの空間をすり抜け、
僕の部屋へと舞い込んできた。
カーテンの隙間から差し込む光線を
頼るようにして、
実にたどたどしく舞っている。
まるで飼育ポットという蛹の中から、
羽化したばかりの蝶のように。
翅を打ち下ろすたびに、
その周囲では光を集めた塵が渦巻く。
まるで発香鱗でも放ちながら
飛んでいるかのようだ。
塵を内包した光線のその先に視線を移すと、
いつかどこかで
見たことのあるような光景が広がっていた。


そこには、
あの夏の終わり、
学校から自転車で帰宅中の
高校三年生の僕がいた。



【YouTubeで見る】第29回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


【noteで読む】第1回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】第28回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】第30回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?