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第28回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~誰にでもある光と闇と~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第二十八回



午後からは体育館で、
品番TC-MIGの電気サイフォンの
検品及び手直しが待っていた。
吉岡さんたちの所属する品管グループが
早朝から忙しかったわけがこれだ。

因みにこの会社が設立されて
初めて製造販売された製品が
電気サイフォンなのだそうだ。
初代社長が
無類のコーヒー好きであったために、
この製品が開発されたらしいが、
息子である二代目の現社長は
ロンドンかぶれの
熱狂的な紅茶好きだと聞いている。

実際五年程前に
企画チームはティーメーカーの開発に向けて
計画書を提出し、
デジタイズグループでも
フローの開発に取り組み
新製品としてリリースされたが、
そもそもティーポットや急須で
美味しく手軽に飲めるものを、
お茶を淹れるために機械を使うほうが
消費者にとっても面倒な話なのだ。
この会社のほぼ全社員が予想していた通り、
売り上げは芳しくなく、
結局営業が在庫の山を抱えて
四苦八苦する最後となった。

お茶に比べてコーヒーは
美味しく淹れるのに手の掛かることもあり、
それを手軽にミルで挽いた豆をセットして
電源を入れるだけで
コーヒーの持つ旨味を
存分に抽出出来る電気サイフォンは
販売以来改良を重ね、
リリースする度に
それなりにいい数字を出してきた。
見た目も砂時計のような
シュールな形なので、
コーヒーが沸き上がるのを
楽しむことが出来る。
この会社にとっては
稼ぎ頭とまでは行かずとも
コアなファンが付いてくれている
重要な製品のひとつなのだ。


今回の電気サイフォンの手直しでは、
温度ヒューズの取り換え作業を
行うことになっている。
既存の設定温度でも危険はほぼなく、
淹れ終われば
自動で電源もオフになるのだが、
万が一高温状態が持続した場合に、
フラスコホルダーの樹脂が
溶ける可能性を秘めているため、
今より低い温度ヒューズに
組み替えることが決定したのだった。


手直し作業は小休憩を挟みつつではあるが、
定時までぶっ通しだ。
全部で五千七百台あり、
それを一週間掛けて消化する予定らしい。
本来なら、十五時から定時までが
僕の割り当てられたシフトだったのだが、
同じチームの原さんから
「手持ちの仕事で忙しいから
 午後一からのシフトも
 代わりに入ってくれないか」
との依頼があったのだ。
マネージャからも懇願の表情で
両手を合わせて頼み込まれたので、
僕はしぶしぶ引き受けたのだった。


僕は人から拝まれるような
立場にいる人間ではない。
こうやって、
時間だけを搾取する手直し作業が
緊急で入った時に、
同チームへ割り当てられた人員シフト枠に
自分の持ち枠以外でも
代打で頻繁に抜擢されるような、
そんな立ち位置なのだ。
もう既に、手直し開始五日前に
チームで決定したシフト表は見る影もなく、
その正規のシフト表より
五割増し多い「堀戸」という二文字で
埋め尽くされてしまっている。


昼明けからの手直し作業に
借り出されたメンバーが、
いかにも怠いという風情で
思い思いに体育館へと向かう。
今日の卓球は珍しく僕一人だった。
昼休憩まで
準備に使わなければいけないくらい
手直し作業の入った日には
品管の動きが
最高潮レベルにまで活発化する。


「てか、なんでこんな忙しい時に
 手直しで他のチームにまで
 要員要請するんですかね~、
 毎度毎度マジ鬱陶しい以外の
 何物でもないですよね~、
 品管で全部やれっちゅーねん、
 お前らの仕事やろっちゅーねん」

つい最近、育休から復帰した
エコの開発チームに所属する八ツ俵さんが、
企画チームの女性陣と日傘の輪になって、
その中心でズンズン愚痴を漏らしながら
僕の前を歩いている。


「でもまあ、品管なんかで
 ビッチちゃんもしっぽ振って
 頑張ってくれてますからね~、
 見習わないとね~。
 ところで今朝のビッチちゃんの服
 見ましたぁ?
 膝丸出しワンピでさぁ、
 そんな短かったら
 折角の白肌が焼けちゃうよ~
 って言ったらぁ、
 日焼け止め塗ってるから大丈夫です
 とかほざかれちゃいましたよ~、
 男と喋るときの態度と全然違うじゃん?
 余所余所しいったらありゃしないっつの、
 派遣さんだから優しくしてあげてるって
 わかってないのかしら、
 飄々としてられるのも
 そのおかげやぞって、
 まあ色々雑用頼める人がいるのは
 有難やですよね~、
 あたしにはできないわ、
 ほんと見習わないと
 ってかんじですよね~」


彼女たちの顔中を塗り染めた
さまざまな化粧品の匂いが
風下の僕へと漂ってくる。
数メートル先に出現した黒い花弁の集合は、
ザラつく風を舞い上げながら
ぐらぐらと笑っている。


「でもビッチちゃんもなんか
 結構仕事転々としてきたみたいやから、
 ここもいつ辞めるかわからんで。
 前に居てた男の子も
 半年くらいで急に辞めたやん?」


襟首の位置でひとつに束ねた黒髪を、
日焼け予防のロンググローブを嵌(は)めた
黒い指先で、懸命に扱(しご)いている。


「まあでも辞められても派遣だし
 すぐ誰か代わりに入ってくるでしょ。
 けどビッチちゃんが辞めたら
 吉岡さん辺り悲しむだろうね。
 あのふたり、デキてんのかなあ、フフフ、
 どうかなあ、訊いてみれば。ハハハッ。
 派遣さんってまともな子いないのかなあ。
 すーぐに辞めるしさあ。
 てかまともじゃないから
 そうゆう人生歩まざる負えないかんじ?
 あたしの周りには
 そんな非正規で働いてる子とか
 居ないからよくわかんないや」


僕の歩く速度では、
否が応でも彼女たちを追い越すことになる。
前方との間隔は、あと一メートルも無い。


「ビッチくらいの見た目があれば、
 まあ日常の男に有り付くのには
 苦労せんのちゃう?
 でももう二十七とかなんやろ?
 ええ歳いってもてるで。
 それやのにまだあんな調子なんやから
 結婚は無理やで色んな意味で」


音階を伴わない笑い声が、
僕の腹の中まで雪崩れ込んでくる。
鈍い音となってもまだ、
腹の底で木霊している。


「うちの会社でもう
 五十社目とからしいよ派遣で働くの。
 ヤバくない?どんだけ根性ないのよって
 慄(おのの)くわ。
 そんだけどこ行っても続かないんだから、
 身に付けたもんなんて
 なんもないんだろうね。一生パシり確定。
 なんつったっけ、器用貧乏ってやつ?
 じゃないか、あれ、そうそう!
 いい言葉思い付いた、不要貧乏!
 ハハハハッ、ウケる」


気が付くと僕は足を留めていた。
僕から数メートル程離れた先で、
黒い歪な塊が
ツマグロヒョウモンの幼虫みたいに、
不気味な棘を蠢(うごめ)かせている。
のろのろと匍匐(ほふく)する背中には、
朱色に塗りたくった短命な
両唇(りょうしん)音をチラつかせている。
蜃気楼の向こう側へと消えていく
彼女達の後ろ姿を眺めながら、
ツマグロヒョウモンの幼虫を
殺してしまったあの日のことを
うつらうつら思い出していた。

―小学生だった僕は
校庭の脇を流れる水路際に屈み込んで、
植わっていた花を弄(いじく)っていた。
その花の下をのそのそと這い回る
ツマグロヒョウモンの幼虫を
観察するために。
視界を遮る邪魔な葉を両手で掻き分けて、
どんな動きも見逃すまいと
一心に幼虫を追い回している。
幼虫が茎伝いに身をよじらせながら
登って行くごとに、僕の頬は紅潮していく。
遺伝子に組み込まれた通りに反復する様……
堪らなくなり
左手でそっと幼虫を拾い上げる。
親指と掌に挟まれても尚、
頭をぐるぐる回転させながら
茎や葉を探して
反復を繰り返そうとしている。
いくらもがいても
行くべき先が見当たらないせいで、
パニックになり
苦しんでいるように見え始める。
ふと自分の股間を覗くと、
青いズボンの奥が豊かに膨らみ立っていた。
次の瞬間、今までに感じたことのない
目まぐるしい光が、
深閑とした電子音と共に
地面の奥から僕の体を突き抜けて
頭上へと駆け上がって行くのが見えた。
しゃがんだままの体勢で
ぶるぶると小刻みに震える全身。
耐え切れなくなった左手には圧が掛かり、
優しい黒棘に向って襲い掛かる。
僕自身も聴いたことのない声が
鼻の奥から漏れ出す。
世界が一瞬、全休符を打ったかのように
動作を忘れている。
気が付くと、
左手に抱いていた歪な黒い塊は、
無様な体液を漏らして圧し潰され、
真っ二つに千切れかけていた。
吹き返した僕の浅い呼吸音が
頭に響いている。
脇を流れる水路の潺(せせらぎ)が目に入る。
鼓動の早くなった心臓を
胸の真ん中に感じながら、
左手の中から漂ってくる
何とも言えない甘い香りのせいで、
僕はまだ暫く動けずに、
その場に取り残されていた―

あの寸刻の間だけ、
僕が少年時代に患っていた
自分の意識と身体との乖離現象を
難なく免れていた。
臨場感がそこにはあった。
僕の肉体が僕として機能していることを
実感した。
自分と幼虫との分離があってこそ
成し得る共鳴のようなものを
強烈に体感していた。
ただそれも長くは続かなかった。
次第に目の前の景色は色褪せていき、
今し方起きた
ツマグロヒョウモンの幼虫の死は、
自分の管轄内での出来事のように思われた。
分離感への激しい抵抗から生まれた
一種の憧憬すら感じていた
ついさっきまでの僕という人間が、
よそよそしいものに思えた。
僕は再び「僕という感覚」を失った僕へと
戻っていた。

そんな思い出に駆り立てられでもしたのか、
僕は炎天の中、
黒い集団目がけて駆け出していた。

彼女達に追い付いた僕の左手は、
八ツ俵さんの右肩に乗っ掛かっていた。

「ギャッ、何!?何よ何なの?
 ちょっと急に何?」

目を見開いて驚いている八ツ俵さんが、
眉間に皺を寄せて後退りしながら
僕の左手を振り払う。
黒い日傘の集団が
僕を支点に扇状に散らばって
こちらを振り向いている。

「帰れ」

僕は力強い声でそう言うと
彼女達に詰め寄った。
黒い日傘達はさらに後退りする。

「何が楽しくてそんなことするんだよ」

僕は八ツ俵さんの目の奥を睨みながら
絞り出すようにそう言った。
ロダモにあった
ビッチという言葉を思い出していた。
彼女が吉岡さんになりすまして
アカウントを操作する光景が目に浮かんだ。
八ツ俵さんは白けた顔をぐいっと突き出して

「はあ?あんたさ——」

と言いかけると、奥の方から小声が被さる。

「堀戸さんだから、あんまりちょっと
 言わない方がいいよ。
 上からも言われてるじゃん」

僕はそんな声を無視して、
いや、その声に感化され、
目の前にいる
八ツ俵さんの胸ぐらを掴み上げていた。
恐怖に慄く彼女の顔めがけて、
僕の右手が殴り掛かる。
殴られた頬を片手で押さえながら
地面にしゃがみ込む彼女を、
黒い傘が覆っている。
他の黒い傘たちが、
彼女に駆け寄り悲痛な面持ちで声を掛ける。
その中のとある傘が、
何処かへ人でも呼びに行くつもりなのか、
その場から離れようとする。
僕はそいつを捕まえて引っ張り戻した。
しゃがんだ黒い傘を無理やり立たせ、
全部で五つの黒い傘を一ヶ所に集めた。
さっき殴ったせいなのか、
僕の右手は都合よく
ぶくぶくと腫れあがっている。
腫れは止まらずどんどん大きくなり、
仕舞には僕の身長を追い越して、
小指なんかは
近くに植わっていた桜の木の幹に
めきめきとめり込んでしまっている。
僕は小指を引き抜くと、
目の前に整列した五つの黒い傘の束を
右手で鷲掴みにし、
泣き叫ぶ傘の束をゆさゆさと揺すった。
そいつらが塗りたくっていた
化粧は剥げ落ちて、
素っ頓狂な面が丸出しになっている。
飛んでいきそうになる黒い傘を
必死で握りしめながら絶叫し続けている。


「ツマグロヒョウモンの幼虫と違って、
 こいつらは兎に角うるさいな」


僕は蠢く不協和音にげんなりしながら、
掌握した黒い傘たちを、
力いっぱい握り潰した、そのときだった。
近くに植わっていた桜の木が、
僕に語り掛けた。

「報復して何になる。
不満の連鎖に加わって、
一体何が生まれる。」

僕はぞっとして我に返った。


冴え返った蝉の声が耳をつんざいた。
無慈悲なほどに降り注ぐ日射が
ぎらぎらと眩しかった。

体育館へとつづく短い坂道を、
八ツ俵さんたちが歩いている姿が
小さく見えた。
地面を気怠そうに擦る靴の音が
ぞろぞろと伸びていく。
何かをついばむようにクククと笑い合う声が
遠ざかってしまった後も、
僕の足は
なかなか動き出すことが出来ずにいた。

小脇に立つ桜の葉が僅かに揺れていた。
僕の背中を伝う汗が全身を冷やしていく。

―僕がそんなことを
 しでかすとでも言うのか?

桜の木に向って問いかけてみたが、
喋るはずもなかった。


―そういえば僕は、
 どうしていつからここにいるんだろう。


十年以上も前からずっと、
僕は何も変わらずここにいる。
蝶の変容をただ目撃してきただけで、
僕自身は何一つ変容されずに、
ずっとここに立っていたというのか。


小脇に立つ桜の葉がさわさわと音を立てた。
枝葉の隙間を通り抜ける風が、
僕の頬を掠めていった。


「堀戸~、お前ぼけーっと
 何見上げとんねん。
 サボる気かチンチン!」

ふいに芳武さんの声が
後ろから被さってきた。
僕の横を通りすがりざまに
ニヤリと笑って歩いて行く。
昼休みの終わりを告げるチャイムが
鳴り響いた。

僕たちは慌てて体育館目掛け走り出した。




【YouTubeで見る】第28回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


【noteで読む】第1回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】第27回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】第29回 (『ノラら』堀戸から見た世界)



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