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第30回 第二章 最終回 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~スーパーノヴァ・レムナント~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第三十回(第二章 最終回)



当時の僕は、
小学生の頃から始まった
例の浮遊感を伴う離人現象が
すっかりデフォルト化し、
特にもうそのことを親に話してみたり
憂いてみたりすることはなくなっていた。
学問も可もなく不可もなくの成績で
それなりではあったが、
部活動には全く興味が湧かず、
授業が終わればそのまま家に帰宅し
音楽を聴くか、
蝶の観察に出かけるかしていた。
都心部からは離れた郊外に住んでいたため、
まだそこらじゅうに田んぼが存在していた。

授業を終えた僕は、
その日も自転車に乗って田んぼの脇を
ぼうっとしながら漕ぎ進めていた。
丁度彼岸の時期で、
畦道には真っ赤な彼岸花が
まるでこのタイミングで咲くことを
言い合わせていたかのように、
一斉に咲き誇っていた。
黄金色に揺れる田んぼを
切り裂くようにして、
鮮烈な赤色が
一本の畔道を覆い尽くしている。
その一本道の中ほど辺りで、
黒く揺らめく二匹の蝶が目に留まった。
僕は道路の脇に自転車を停めると、
しばらく彼らを眺めていた。
ナガサキアゲハのつがいが、
蜜を求めて花から花へと渡り飛んでいく。
よく見ると、
蜜を吸っているのは雌の方だけで、
雄はというと、
雌のすぐ傍にポジショニングして
彼女の様子を伺っているだけのようだった。

彼らをもっと近くで見ようと思ったのか、
それとも捕獲しようと思ったのか、
もしくはそのどちらでもなかったのか、
動機に関しては
もう覚えておらず曖昧なのだが、
僕は兎に角、
その畦道の方へ近づこうとして、
田んぼに向って少し傾斜したところへ
足を踏み入れた。
視線を足元へ移すと、
履いていたコンバースの靴紐が、
左だけ解けてしまっているのが目に入った。
僕は腰を屈めてそれを結び直すと、
また体を起こして
蝶の飛んでいる場所へ近づくために
前方を観通した、そのときだった。

目の前に広がっている景色が、
さっきまで見ていた景色とは
全く違ったもののように、
僕の視界に飛び込んできたのだった。

ナガサキアゲハの凝縮した黒、
それを取り囲む
無数の彼岸花の圧倒的な赤―

言葉にすると呆気ないのだが、
蝶が途轍もなく蝶であることに、
また、彼岸花が
過度なほど彼岸花であることに、
そのときの僕は
ひどく驚愕させられたのだった。

突然に自律神経か何かの働きが
可笑しくなってしまってでも
いたのだろうか、
眼球から入ってくる光の量が
一時的に上手く
調節できなくなっていたのかもしれない。
僕は、激しく動揺している内心とは裏腹に、
きょとんとして、
その場にしばらく立ち尽くしていた。
僕の両足は、
まるで歩くという身体機能を
消去されてしまったかのように、
地面にぴたりとくっ付いて、
微動だにしなかった。

しばらくして、
ようやっとその場から
動き出すことを思い立った僕は、
足に意識を向け歩こうとした次の瞬間、
両足が、
今までに経験したことのないような
酷い痺れに襲われた。
もしかしたら雷にでも
打たれてしまったのかとさえ思った。
そんな疑いを抱く自分が
とても滑稽に思えたが、
それでも僕は、晴れ渡る空を一度見渡し、
何処かから雷鳴は聞こえてこないかと
耳を澄ませた。
ときどき吹きゆく風に、
木々や稲穂がさわさわと
寄り掛かる音がするだけで、
辺りには相変わらず
長閑(のどか)な田園風景が
広がっているばかりだった。

奇妙な心持ちのまま、
取り敢えず足踏みをしたり、
軽くジャンプしたりして、
別の異変が無いか察知しようとした。
そして僕は漸く、あることに気が付いた。
今までずっと存在証明のしようがなかった
あの浮遊感が、
ぱたりと無くなってしまっていたのだ。
小学二年生の頃に突如として始まった、
「僕の意識が後頭部上空辺りで浮ついて
 身体から分離してしまった感覚」が、
つい今し方、突如として、
消え去ってしまったらしかった。

足の痺れが遠のいていく程に、
僕の意識が腹の底、足の際へと
定着していくのを知覚した。
一気にひざ下が
どっしりと重くなった感覚がした。

自身の異変に気を取られていたせいで、
さっきまでいたナガサキアゲハのつがいは、
何処かへ居なくなってしまっていた。

元に戻ったからといって、
生活上の雑多な事が
今までよりも上手く進むということは
無かった。
相変わらず学校は
無味乾燥とした場所だったし、
僕の学業成績は下の中辺りだったし、
運動もからっきし苦手なままだった。
何かが劇的に好転したわけでもない
当時の僕の生活を見て、
〝浮遊感が無くなり、
 再び意識が躰に内在し始めた〟
などという解釈難儀な出来事が
起きたことなど、
周りの誰にも、両親にすら気付かれぬまま、
現在に至っている。

今し方、自分で作り出した幻影は、
カーテンから差し込んでいた
光の塵が消えていくのと同時に、
目の前から姿を消した。
テーブルに置かれた飼育ポットの超新蝶は、
相変わらずポットの底で
寿命が尽きたかのように眠っている。
僕は少しきょとんとしたが、
放置していた洗濯のことを思い出すと、
重くなった腰を
畳から引き剥がして立ち上がった。

洗濯機から救い出した衣類を抱えて
ベランダに出ると、
さっきまで僕の部屋に居た田所さんが、
トキさんちの縁側で
トキさんとお茶を飲んで
笑っているのが見えた。
トキさんと目が合ったので軽く会釈したら、
田所さんもこっちを振り向いた。
ガラス戸越しに、
朗らかに笑いながら
手招きをする田所さんに向って、僕は
「干し終わったらそっちに行きます」
という意味で一度大きく頷いたのだが、
田所さんには通じなかったようで、
首を傾げていた。


🦋


長過ぎる夏を半分
飽き飽きとしながらやり過ごすと、
高くなり始めた空に浮かぶ鱗雲に
束の間の秋を垣間見る。
来年こそは、その姿を
消してしまうのではないかという程に
僅かになってしまった秋の気配を
風の合間にも求めつつ、
「これは思い出の秋を
 呼び起こしているだけで、
 もうとっくに秋は
 日本から消えてしまったのではないか」
という、若干絶望的な解釈をして
落ち込むという自業自得を同時に味わう。


「もともとあったと思っていたものが
 無くなると、
 感傷的な気分に陥りやすくはなるわな」

僕の秋に対する感想を受けて、
紗英さんは体側のストレッチをしながら、
こんな返答をくれた。

繁劇なる手直しの巻が
終了を迎えた次の週からは、
いつも通り
昼食後の卓球に現れ始めた紗英さんが、
今日も卓球前に準備運動を熟している。
そんな彼女を横目に、
僕は籠の中から
割れのない白球を選り分けつつ、
先週の月曜日
久しぶりに卓球場へ顔を出した
紗英さんとのやり取りを、
思い返していた。
彼女は僕とのラリー中、唐突に

「私、来週末で
 ここ辞めちゃうって知ってた?」

と、まるで他の誰かのことについて
噂話でもするかのように
訊ねてきたのだった。
つい先週のことなのに、
その時の僕が彼女に
どんなリアクションを返したのか、
全く思い出せないでいる。
あのあとすぐに、
吉岡さんが卓球場に現れて
試合が開始されてしまったことも
原因している気がした。

僕は選りすぐった白球を
いくつかポケットに詰めると、
卓球台へ移動した。
持っていた球を
フォア面でリフティングしつつ
紗英さんの方をちらっと見た。
彼女は腰を捻りながら、
窓の外を見遣っている。
僕はそんな彼女に向って

「次の仕事はいつからなの?」

と訊ねてみた。すると彼女は

「次?そんなの
 決まってるわけないじゃん」

と、そんな馬鹿げた質問をするなよ
といった口調で応答した。

「そうゆうもんなの?」
「そうゆうもんでしょ」

この会社に対する郷愁の欠片も無さそうな
拘(こだわ)りのない遣り取りに、
若干寂寞(せきばく)とした想いを抱いた。
だが僕のそんなもたついた感情の方こそ、
何か常識に倣(なら)った
真似事のようにも思えた。

そこへいつものように、
吉岡さんが靴底を地面に擦りながら、
のたのたと卓球場へ入って来た。
入ってくるなり紗英さんを見て

「もうあと一週間かあ」

と哀愁たっぷりに呟いて見せた。
紗英さんはそうだねと相槌を打つと、
ラケットを持って卓球台に移動した。
吉岡さんはどこか不満げに
彼女の動作を目で追っている。
それから彼は僕らに向って

「お前ら住所教えてや」

と言い放った。
僕はリフティングする手を止めて
黙っていた。紗英さんは

「え!?なんでよ」

と訝し気な表情を作って訊ねる。
吉岡さんは、そんなことは気にも留めずに

「今年は年賀状でも書こかと思って」

と妙にハキハキとした調子で言った。
紗英さんが今度は面倒臭そうに
「なんでよ」と訊き返す。
それから続けて

「教えてもいいけど、
 正月にはもう
 別の場所に住んでると思うよ」

と言った。それを聞いて吉岡さんは

「そおなん?いつ引っ越すん?
 今月はまだ今の家におるんやろ?」

と今月のことを訊ねる。

「今月は居るけど…
 来月末でマンションの賃貸契約が
 終わっちゃうから、
 更新料発生する前には引っ越すつもり」

紗英さんは吉岡さんの方へ
不審げな目線を送りつつそう答えた。
吉岡さんは複雑な表情をしながらも

「そうなんや。けどまあ、
 今の住所でええから教えといて」

と言いながら
ポケットからスマホを取り出した。
紗英さんから住所を聞き出した後、
今度は僕にも住所を聞いて、
同じようにスマホにメモを取っていた。

「なんか急に気持ち悪くない?」

と、紗英さんが僕に向って話を振るので、
何か答えようと口を開きかけたそのとき、
吉岡さんが「ちょっと紗英さん・・・」と
低いトーンで彼女の名前を呼んだ。
彼は切なげな目を紗英さんに送りつつ

「ええ歳こいたおっさん捉まえて、
 気持ち悪いとか言うんは、
 殺人行為にあたるで」

と言って彼女を笑わせていた。
僕は紗英さんに何か言いそびれたまま、
また白球を宙へ小さくあげて、
リフティングを再開した。

きっと紗英さんが居なくなったら、
僕はまたこの卓球場で一人になるのだろう。
そうなったら、昔のように、
一人で打つ練習をするだけだ。
きっと吉岡さんは来なくなるだろう。
今は紗英さんが来るから
吉岡さんも来るだけだ。
現に紗英さんが休みの日は、
吉岡さんは顔を出さないから、
僕はスリースターで一人打ちをして過ごす。
そういえば
二人が手直し準備で卓球に来ないことを
聞かされてなくって、
一人待ちぼうけを
食らったこともあったっけ。
なんだか懐かしいな。
僕は球を両面で突きながら、
まだ新し過ぎる想い出を、
感情とともに蘇らせていた。
だが、そんな陳腐な懐古に
埋もれていくのは、
今日という日を
蔑(ないがし)ろにするようなものじゃないか
と気付いて、
すぐさま思考することを止めた。

リフティングの最後に、
高めに打った球を左手でキャッチして
試合を開始した。
紗英さんのころころとした笑い声が、
卓球場を満たしていった。


そうやって僕らは次の日も、
そのまた次の日も、
例に漏れず卓球場で顔を合わせ、
汗を流した。


紗英さんが会社に出勤する最後の日、
僕はロダモに、
前の晩作成したプレイリストを
十二個一気にアップした。

昼休みの卓球の時に
紗英さんに伝えようと思っていたのに、
朝、彼女は出勤するやいなや

「さっきロダモみたら
 プレイリストがめっちゃ増えてた!」

と、僕に言い放った。
予定外の成り行きに
僕は若干面食らうとともに、
用意していたプレイリストの
リリースタイミングを深く後悔した。
ただ、僕のロダモを
紗英さんは本当に普段から
活用しているらしいことを知って、
嬉しくもあった。

そこへ、
たった今出勤したばかりらしい吉岡さんが
通りかかる。
彼は目尻いっぱいに皺を寄せて

「もう今日で最後やなあ、
 寂しくなるなあ」

と、なんだか昨日も聞いたようなフレーズを
溢(こぼ)す。
それから手に持っていた
メモのようなものを紗英さんに渡した。

「ピールのニューアルバムが、
 再来週発売になるやん?
 その予約番号や。
 多分発売日の前日には
 自宅に届くと思うけど、
 一応予約番号のメモ、渡しとくわ。
 俺からの囁かな餞別や」

彼はそう言うと、
もう一枚メモを出してきて僕に渡した。

「もしかして、もう予約してもたか?」

と、僕に訊くので、
「まだです」と完結に応えたのだが、
吉岡さんからの突然のプレゼントに
困惑の意が顔に出ていたらしく、
彼はそんな僕を見て

「遠慮すなて、
 お前の分はついでに買っただけや」

と言って、がはがはと笑った。
僕が「ありがとうございます」と
笑顔で応えると、
隣で紗英さんも嬉しそうに
吉岡さんに向って礼を言った。
「そんなんええねん」と、照れ臭そうに
あさっての方角を見て呟く吉岡さんを尻目に、
紗英さんはメモをまじまじと見詰めながら、

「この、supernova remnant って
 どういう意味なんだろね?」

と呟いた。メモにはアルバムの題名が
予約番号の上部に書かれていた。
スマホで調べればわかるのだろうけれど、
英語の不得意な僕らは一同に
「どういう意味なんだろう」と言って、
なんだか他愛のないこととして
その場では流してしまった。
そうこうするうちに始業のチャイムが鳴り、
僕らは各々に
チームの朝会へと散っていった。
この日もいつもと変わらず
僕は寸検やら耐久試験やらを熟し、
昼休みには紗英さん達と卓球をし、
おやつタイムにはロボさんエリアで
3D解析をしながらマロンデュを頬張った。

フレックスで働いている僕は、
皆の定時より一足早く退社するがために、
十六時三十五分になると
いつも通り実験室で
ひとり帰り支度をし始めた。
すると、吉岡さんが事務所の方から
ものすごい勢いで僕の方へと近づいて来た。
向かってくる彼の圧に圧倒されて、
リュックを背負いかけた体勢で
硬直してしまった僕に、彼は大きな声で

「お前こんな日まで
 フレックスで帰るんか!?」

と言った。それからすぐにこう付け加えた。

「ちょっと待っとれ」

彼は事務所の方へと戻っていくと、
部長の席まで出て行って何か話をしていた。
部長から何かの了承を得たらしい吉岡さんが、
今度は品管チームの島で
デスクワークをしている
紗英さんのところまで行き、
何か話し始めた。
紗英さんは軽く二三度頷くと、
吉岡さんに部長のデスク前まで案内された。

それから吉岡さんは
開発部を見渡すなり
よく通るその声で従業員全員に向って
こうアナウンスした。

「ちょっと手止めてくれへんか?悪いな。
 実は、今日で、
 派遣で来てくれてた矢崎さんが
 契約終了になるねん。
 長いこと開発部の一員として
 やって来てくれた彼女から、
 ひとこと挨拶があります」

手短な振り文句で
紗英さんに挨拶のバトンが渡される。
紗英さんはいつものように
クスクスと笑いつつ
従業員一同に向ってこう言った。

「一年と二カ月十日、
 あと二十日働けば
 まだキリが良かったんですけど、
 堪え性がないんで
 今日で辞めることにしました。
 短い間ではありましたが、
 一緒に働けたことを嬉しく思います。
 ありがとうございました」

僕の実験台の前に
突っ立って聞いていた芳武さんは、
彼女の挨拶にクスリと笑ったが、
そのあとすぐにハッとした表情をして

「いや、俺矢崎さんが辞めるとか
 全然聞いてへんで」

と言いつつ、僕を振り返った。
僕は「多くの人が聞いてないと思います」
と言って彼を宥(なだ)めたつもりだったが、
全く納得していない表情を浮かべていた。
芳武さんは
隣に居た新入社員の女の子に

「俺ら、矢崎さんと仲良かった…
 よなあ?」

と悲しそうな顔をして相槌を求めていた。
新入社員の女の子は

「私は先々週のおやつタイムに
 紗英ねえさんから聞かされましたよ」

と満面の笑みで応えると、芳武さんは、

「はあ!?なんでそのおやつタイムに
 俺は誘われてないねん、
 今そんなこと俺に向って打ち明ける?」

と言って、
分かりやすく肩を落として見せた。

紗英さんのシンプルな挨拶が終わった後、
吉岡さんが解散の号令を出した。
手を止めていた従業員一同は、
ざわざわと各々の仕事へ戻っていった。

僕は帰りがけに
紗英さんのデスクに立ち寄って
「じゃあ、元気でね」
と短く挨拶をした。
すると紗英さんが呵々と笑い出すので、
どうしたのと訊くと

「なんだか堀ドンのほうが
 今日で退職するみたいな雰囲気
 出しちゃってるんだもん」

と言ってさらに笑った。
確かに、まだデスクで
悠々と仕事をしている紗英さんよりも
今から帰る僕の方が、
退職者として似つかわしい気がした。
僕もつられて朗笑した。

週明け、
珍しく吉岡さんが体調不良で欠勤した。
会社の皆は、紗英さんの退職で
ショックを受けているのではないかと
憶測したが、
次の日からはいつもと変わらぬ吉岡さんが
出社していた。
案の定、昼休みの卓球に
彼が顔を出すことはなくなった。
だが、おやつタイムになると、
ロボさんと僕のいるエリアに
立ち寄ってきては、
僕らに向って何か一言二言喋り掛けたり、
お菓子を差し入れたりしてくれた。
それでもやっぱり以前より
話す機会はめっきり減っていた。
彼とは元々所属するチームも違うため、
仕事の話で関わること自体が
少ないせいもあるのだろう。
今にはない密な関係性を
紗英さんが居た頃には
彼とも築けていたということ自体が、
夢の出来事であるかのように思われた。


次の週の水曜日、
僕はピールのニューアルバムを聴くために、
久しぶりに有休を取得した。
発売日の前日に
自宅に届くらしいということを
吉岡さんから聞いていたが、
結局昨日は届いていなかったのだった。
今日は朝から気分が高揚していた。
ただ音楽が
郵便受けに届くという出来事ひとつで、
こんなに心がワクワクしている自分が
少し面白かった。

あの日、紗英さんと行ったライブで
披露されたであろうピールの新曲達が、
今日届くアルバムには詰まっているのだ。
洗濯を終えてベランダに出ると、
トキさんが庭いじりをしていた。
玄関から門へと続く
小径の脇に植えられた植物に
水を撒いている。
今はシオンや百日草、
メドウセイジなんかが
思い思いに咲いていて、
気持ち良さそうに日光浴と水浴びを
楽しんでいるように見えた。

トキさんちの縁側では、
何故か田所さんがユキ兄さんと
お茶を飲んでいるのが見えた。
今日は水曜日だから、
きっと大学の研究日で家に居るのだろう。
研究日にまで大学に居ると、
教授に雑用仕事を頼まれて
自分の研究どころじゃなくなるんだと、
いつか田所さんが話していたことを
思い出した。
すると縁側から田所さんが大きな声で

「平日に居るなんて珍しいね」

と言って僕に手を振る。
有休取ったんですと
彼に向って言い放ったが、
よく聞こえなかったらしく
首を横に傾げてみせた。そのあと

「なんか機嫌いいね」

という大きな声がまた届いたので、
僕は彼に向って軽く頷いて見せた。


昼過ぎになって
郵便局員のバイクの音が聞こえて来た。
僕は急いで一階まで降りて行って、
郵便受けの前で待っていた。
勢い付いて降りてきたはいいものの、
一抹の羞恥心が芽生え始めた。
いい大人が配達員の到着を
郵便受け前で待ち構えている状況は、
結構苦々しいものに思えた。
しかも郵便配達でCDが届くという情報も
僕が勝手にそう思い込んでいるだけで、
もしかしたら別の配送業者から
届けられる可能性だってあるのだ。
そんなこまごまとした気付きと不安に
襲われながらも、
アパート前にバイクを停めて
こちらへと向ってくる郵便局員の姿を
目で追う。

僕が軽く会釈すると、
彼は笑顔で「こんにちは」と言った。
一応僕は「二〇三号室の堀戸です」と
挨拶をすると、
彼は「堀戸さんね、こちらですね」と言って
もっていた封書類の中から
茶封筒を一つ渡してくれた。
クッション性のあるその封筒を
手にした途端、
僕は込み上げて来る笑いを抑え切れず、
その場に崩れるようにして
からからと笑った。
自分でも信じられない程の
安堵感と幸福感に包まれていた。
郵便局員にどう思われていても
構わないやという気分になり、
彼に向って「ありがとう!」と
大きな声で礼を言うと、
急いで自分の部屋へと戻った。
自分ではないような自分がそこに居た。


茶封筒を開封すると、
中からはグレー一色の厚紙で出来た
CDジャケットが出て来た。
ジャケットの真ん中には、
アルバムの題名である
supernova remnantという小さな文字が
エンボス加工されている。
僕はCDをパソコンにセットして
ヘッドホンを装着すると、
まずは何よりも先に、
あの時のライブの
ラストに歌われたという曲がどれなのかを
探し始めた。
歌詞カードを捲りながら、
副詞の羅列で成り立っている曲を探し出す。
その曲はアルバムの中でも
ラストに配置されていた。

スタジオでレコーディングされたその曲は、
エコーのかかっていない
鮮麗でクリアな音をしていたが、
やはりナギィの発する声は
倍音唱法を連想させた。

「…トゥルーザモロー最もソロー…
 …対にスィングリー意にパティキュラリー
 …空海ホモウ風霊エポック……」

心地の良いお経みたいに
無感情で穏やかだが芯のあるナギィの声は、
意味があるのだか無いのだか
分からない歌詞を
反復して暫く歌い続ける。
曲中様々な楽器が追加されていく度に
音圧が増していく。
そしてそれはいつしか
ラヴェルのボレロを彷彿とさせるような
クレッシェンド効果によって
クライマックスへ向け
圧倒的な高揚感を生んでいく。

〝最後にやっと出て来たフレーズに
 ぐっと来た〟

僕は今一度、
デネブで吉岡さんが述べていた感想を
思い出して少し身構えた。

すると聞こえていた音楽は
次なるステージへ向け
ハレーションを起こしたかのように
一瞬間の空白の拍子でもって
光のように消え去っていった。
その空白の向こうでは、
まだ微かに神聖な音が緩やかに流れている。
そこから一気に
オルガンの美しい和音が
鳴り響いたかと思うと、
その音程に調和するように、
言葉を伴わない母音だけの合唱が始まった。
僕は、
きっとピールのメンバーが
一緒になって歌っているに違いないと
確信にも似た思いを抱いた。

ピールらしい無国籍感も相まって、
それはまるで
ブルガリアンヴォイスのようだった。
不協和音を利用した、シンセにも似た、
独特な響きのある声の重なり――
未知の世界へ
飛び込んでしまったときのような、
緊張を伴う興奮を、
幻想的な音の中に見い出す。

ビートを手放してしまった音楽は、
揺ぎ無い浮遊力によって、
無限大の自由を謳歌する。
そんな中で、
何者でもなかったはずの母音たちが、
一つの文章を作り始めた。


I follow the story brought in
それはもうすぐ終わるよ
I follow the story brought in
それはようやく終わるよ
I was in love with that
過適応な恋だったとしても
It meant the world to me
それはただの貴い経験
already been hugged by
これでようやく終われるよ

僕は不覚にも、
吉岡さんがこの曲を聴いた時に
感じたのであろう状態に陥っていた。
誤解を恐れずに率直な言葉を使うと、
巨大な感動で言葉を失っていた。
たかだか五行の歌詞に、
読むだけでは特に
超越した文章でもないその言葉に、
音楽が合わさったことによって、
ここまで放心状態にさせられるとは、
一体このピールは、この音楽は
何者なんだと心底思った。
たった今の僕の身体は、
頭も手足も失くしてしまった、
胸の鼓動だけで成り立っているかのように
振動していた。

'm show born in

終わっていく曲の中で、
この音楽の題名を呟いてみた。
「ムショウボウニン」
続けて英語っぽい発音で発声してみた。

これがどういう意味なのかは分からない、
もしかしたら
意味もない文なのかもしれないし、
'm(アポストロフィ)の前に
あるであろうはずのIが
抜け落ちてしまっている時点で、
文ですらないのかもしれない。

僕はヘッドホンを外すと、
水を汲みに台所へと立ち上がった。
すると突然、
真下の階からドンと大きな音がした。
不審に思いながらも、
コップの水を飲み干していると、
今度はガタガタと
何かを動かすような音がした。
気になって外に出てみたら、
何気なく仰いだ空が
思いの外高くにあって驚いた。
胸の奥で燻っていた感動が
再び沸き起こって身震いがした。

下の階に行ってみると、
田所さんが何やら
作業をしているところだった。
何をしているのかと聞くと、
この空き部屋に置かせてもらっていた
自分の持ち物を整理しているんだと言った。

「ぼちぼち片づけといてねって、
 トキさんからの指令でさ」

そう言って田所さんは
また空き部屋へと戻っていく。
やっさかもっさか
本の整理をしている田所さんを、
僕は開け放たれたドアの外から見ていた。
それから僕は、なんとなく
思いついた質問を彼にしてみた。

「大学って楽しいですか」

それほど聞きたかったことでも
なかった気がするのに、
声に出した途端、
今までずっと気になっていたことのようでも
ある気もした。
彼は「うーん、どうだろうなあ」と
いい加減な返答をすると
手にしていた本をパラパラと捲った。
本から埃が舞う。
僕も靴を脱いで部屋の中へと入って見た。
埃り臭い空気に混じって
幽かに畳の匂いがする。

この部屋も僕の部屋と同じ間取りだとは
思えない程、なんだか窮屈に思えた。
誰の持ち物なのか、
パイプ椅子やらミシンやらが
剥き出しのまま壁際に放置されていた。
鳥籠まである。
部屋の隅で埃を被った学習机の上には、
世界地図が描かれたデスクマットが、
これもまた埃塗れで
敷かれたままになっている。
その前方に広がる畳の上で
胡座をかいて座っている田所さんの後ろ姿に
目を遣る。
僕は彼の四方を囲んでいる本の山へと
歩み寄った。

平積みされた本の塊が乱立する中、
窓際に陣取っている崩れ掛けた本の山が
目に留まった。
本の雪崩の一番上に乗っかっていたのを
手に取って表紙を返す。
そこには『関係と性』という題名が
明朝体で印刷されていた。

「これって・・・」

以前会社で借りて帰った本のことが
頭を過る。
借りたはいいものの全く読まず仕舞いで、
今は僕の部屋の本棚に立てかけられていた。
返すか読むかしなければと、
本棚を見る度に思う。

「どうかした?」

声に反応して振り向くと、
田所さんがぽかんとした顔で
僕の方を見上げていた。
僕は手に持っていた本を彼に見せた。
彼は開いた口を
さらに広げて驚いてみせた後

「いじらしいなあ堀戸君は」

と言って笑った。
いつもながらこの言動を
上手く理解できずにいると、
彼は立ち上がって
僕の手から本を受け取った。
窓から差し込む西日が、
彼の眼を眩しそうに細めさせた。
彼のルーティンなのか、
手にした本をパラパラと捲り出す。

「ふつうこの本の山から見つけちゃう?
 これ堀戸君の部屋にもあったよね」

と優しく笑って僕を見た。
僕が驚いていると

「人んちに行くとさ、
 本棚に並ぶ背表紙、
 チェックしちゃうんだよね」

と言って、
捲り終わった『関係と性』の背表紙を
眺めている。
彼は「どうだった?」と
本を右手に掲げて僕に感想を聞くので、
正直にまだ読んでいないことを告げた。
それを聞いた彼は
一度大きく溜息を漏らした後

「これ僕が書いた本なんだ」

と言ってまたクスクスと笑った。
僕は驚きながら

「でもこれ平舘幸生って書いてありますよ」

と著者の名前を指して言うと
「本名で書かなきゃいけないって
ルールでもあるの?」と
僕を悪戯っぽく睨めて破顔した。
余りにも愉快そうに笑うので、
これは嘘なんじゃないかと勘繰った僕は、
細い目をして疑いの視線を捻じ込んでみた。
すると彼は

「僕は、冗談は言うけど嘘は吐かないよ」

と言って晴れやかな笑顔を西日に晒した。

あとで調べたことだが、
平舘幸生のプロフィールには
安朱原(あしゅわら)大学物理学講師と
記述があった。
他にもいくつか著書があるらしい。
顔写真は見当たらなかった。
これが本当に田所さんだとすると、
彼は助教のはずだったから
いつの間にか
講師に昇進していたことにもなる。

田所さんは窓の外を見ながら
大きく背伸びをすると

「来て見ればいいじゃん」

と軽やかな口調で言った。

「どこへですか」と聞くと

「僕が勤めてる大学だよ。
 さっき面白いか聞いてたじゃん」

と腰を捻りながら言う。
もうそんな質問のことなど
忘れかけていた僕は
「ああ」と間延びした声を漏らしてから

「来て見ればいいって・・・
 そういうもんなんですか?」と問うた。

彼は「そういうもんだと思うけど」と言って、
今度はラジオ体操に
ありそうな動作をしている。

「それにほら、大学って、
 今世紀で消えて無くなる
 三大風物詩のひとつだしね」

と続けてそう言った。
他の二つは何なのだと聞くと

「秋空に、犬のリール」

と迷うことなく答える。
不意打ちの言葉に
僕はつい笑ってしまった。
彼は僕の反応などお構いなしに

「明日にでも一緒に来る?」

と呑気なことを言う。
僕は「会社休めって言うんですか」
と問うと、彼は

「そう聞こえたんならそうかも」

と言って、埃っぽい部屋の中で
いつまでも清々しく笑っていた。




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【noteで読む】第29回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


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