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小学校時代①

 ここからは具体的に思い出を綴っていきたいと思います。

 私の小学生時代ははっきり言って優秀な生徒とは呼ぶことはできませんでした。宿題は言われてもやらないし、一人一人作るポスターや新聞なんかもみんなが作り終わってから作るような生徒でした。恐らく先生たちからすれば、相手にもしたくない。そんな生徒だったかもしれません。

 幼稚園の時はすごい人見知りでなんでも先生や親の言う通りにしていた私ですが、なぜ小学生になってそのように人の話を聞かない人になってしまったのか。自分でも不思議に思って、振り返ってみました。

 小学1年生。私は幼稚園を卒園し、あの踏切を渡りながら徒歩で学校に通うことになりました。学校までは徒歩15分〜20分。小学生にしてはけっこうな距離でした。幸い2つ隣に住んでいた家庭で私と同い年の男の子がいたので、その子と一緒に毎日通っていました。私が通っていた小学校はいわゆるオープンスクールと呼ばれるタイプで、教室の扉などは一切なく、隣の教室まで声は丸聞こえでした。

 正直小学校生活は楽しくなかったです。幼稚園の頃から漢字の読み書きや、簡単な計算は勉強していました。その時は楽しかったです。できると大いに先生が褒めてくれるから。でも小学生になると、できるのは当たり前で、なにかやった!と自分では思っていても、先生たちはなかなか褒めてくれませんでした。

 小学校1年生でそんな経験をした私は、1年生の時さっそく登校拒否をしました。理由は勉強が楽しくないから、仲の良い友達がいないから、幼稚園からの知り合いに暴力を振るわれるようになったから。今思い返すとキリがないですが、そういった理由で、入学早々登校拒否をしました。

 なんといっても担任の先生(A子先生)が嫌いでした。人を下に見る態度、なんでもできて当たり前みたいな口調。私にはそういった人から滲み出るオーラみたいなものにすごく敏感なので、A子先生とは極力話したくありませんでした。

 A子先生は、自分のクラスで、しかも1年生から登校拒否がでたのが気持ち悪いらしく、毎日のように家庭訪問にきました。体調はどうですか、気持ちは安定してますか、そんな上辺だけで投げかけてくる言葉に小学生は絶対に反応しません。そしてある家庭訪問の日、私はA子先生から耳を疑うような発言を聞きます。

「あなたの母親としての教育が甘いんじゃないですか?」

 そのセリフを聞いた瞬間私はA子先生の全てを拒否しました。もう顔も見たくない。口なんて絶対聞きたくない。あくまで自分が正しい、そんな歪んだ価値観を持つ人とは絶対に関わりたくない。そう思い、登校拒否を続けました。根っこから学校という環境に対する拒否反応を持ってしまいました。

 ですが、そんな生活にも光が差します。A子先生が結婚し、身篭っているということで、産休に入ったのです。すごくおめでたい、本当におめでたいことが起きたと母と私で大いに祝福しました。変わった担任の先生(B子先生)はすごく温厚で、登校拒否をしていた私にも親身に話を聞いてくれました。私にとって本当の救いでした。それから私は徐々に登校を再開しました。

 失われた約半年間、1年生の勉強なんてすぐに取り戻せる。そんなこともなく、私はクラスのみんなとはやや遅れて勉強についていってました。もちろん面白くないです。でもB子先生はとても良い人で、勉強ができると褒めてくれます。そのおかげでやる気が沸き、進級する頃にはクラスのみんなと同じくらいには勉強ができるようになっていました。B子先生がいなければ間違いなく今の私はいない。そう思います。

 激動の小学1年生を過ごしましたが、私の小学生編はまだまだ続きそうです。嫌な先生との出会いと、救いの先生との出会い。楽しくなってきた学校生活ですが、小学校卒業の時には勉強はまた大嫌いになっています。どうして私は同じことを繰り返してしまうのでしょうか。次は小学2、3、4年生の話でもしようと思います。

 ここまで読んでくれた方々へ ありがとうございます。読んでくださる方がいてくれると思うと創造力が漲ります。これからもよろしくお願いします。


 

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