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祈りと医術の文学。

京は和歌が好きだった。そのせいか、京の言葉にはいつもかろやかなスピード感と彫琢された表現とが織り合わされていて、さらりとした語調とリズミカルな響きもふくめてどこか薫風のなつかしさに似たような深みがあった。行儀良くならべられた言葉たちには一切の無駄がなく、それらはまさに和歌のような文藝で、だからだろう、京の文章はどのような歳のどのような人にとっても同じく非時間・非人称の真新しい驚きを与えた。僕も例外ではない。

京の文学とはなんだろうか、と僕は言葉を綴りながら考えてしまう。プルーストのようにコルク張りの一室で一人筆を進め、「永遠の傑作」を書き上げることが京の文学だろうか。京が書き遺した作品たちが、盲人の悲しみを綴ったルポルタージュだとか、怯える少女の恋を描いた随筆だとか、そういうクリティシズムに染まっていくとしたらそれはほんとうに悲しいことだ。京の言葉や文章たちは、近代的な文学が作品の中によく見出したがる〈私〉の自己表現なるものとは、まさに対をなすタイプの文藝だからだ。

インディオたちはどのような近代芸術も至ることのできない筆致で岩壁に命が燃え上がる様を描き、一人一人の歌と持ち、躍りの型とヴァリエーションを持つ。けれどもそこに「芸術」というものはない。ル・クレジオは、そこにあるのは医術だと言う。歌も絵画も、世界と己をいやす医術であると。そうであればこそインディオたちは、一筆ごとに、また一声ごとに、あるいは一呼吸ごとに、力をみなぎらせて瞬時の推敲を行うのである。

京の文学もまた、そのような医術であると僕は思う。京の文章は祈りそのものだった。

サムネイル:菅かおる『浮かべる(ジュリア)』

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