見出し画像

力の満ち引き。

人が自らの行動を自由に決めることができたとしたら、一体、人々はどのような尺度で持ってそれを決定していくのだろうか。ある人は「正/邪」という対語における「正」の方を選ぶという。またある人は「愛/孤独」という対語における「愛」の方を選ぶという。またある人は「正義/不義」という対語における「正義」の方を選ぶという。なるほど、どれも立派なものだ。けれども困ったことに、僕にはそういった克明な形での尺度というものがなく、「一体、僕はどんな尺度で持って自分の行いを決めていけば良いのだ?」と考え込むことも少なくなかった。

けれども、ある恋の体験があってから、自分の中にあるエッセンシャルな尺度が克明な形で分かるようになった。コンパクトな二字対語では表しづらいのだが、長いのを分かってあえて綴ると、それは「力が満ちる/力が消える」「力がみなぎる/力が枯れる」というものである。力が消えてしまうようなこと、力が枯れてしまうようなことはなるべくやりたくない。力が満ちる、力がみなぎる方向へと歩みたい。

僕がこういう風に言うときの「力が満ちる」「力がみなぎる」という事象を、知性とか学術の巧知とかで表すことはできない。心のことか、肉体のことかと問われればばどちらのものでもあり、エゴイスティックなものか、オルトルイスティックなものかと問われれば、やはりどちらのものでもある。けれども、「力が満ちる」「力がみなぎる」と言うエネルギーの趨向というか、そういう事象はかならず存在していると僕は思っている。どんなに悲しい気分の日でも、双いに恋をし合う人といっしょに散歩したり談笑したりすれば、心や体には喪われた生彩がもどってくるし、霽れやかな気分になれる。力が出るようになる。そういう事象を「力が満ちる」「力がみなぎる」と呼んでいるのだ。

そして、「力が満ちる」「力がみなぎる」方向へと歩めば、たいてい大きなまちがいは起こらないとも思っている。力が満ちるとき、あるいは力がみなぎるとき、僕の命は欣んでいるし心は霽れわたっている。そのような力の満ち引きこそが僕にとってのコンパスなのだ。

サムネイル:菅かおる『浮かべる(陽春)』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?