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[感想]プラトン『国家』

訪頂有難御座。

教授に「君は『国家』読んでみたらいいと思うよ」と薦められ、15日間かけて読み終わった。一日3時間ぐらいは格闘したと思う。内容は当然面白く、それに加えて読んでる最中に、自分の身体に不思議な変化が起きたので、それも合わせて書いてみたい。

感想を書く前に他の人の感想を見ようと思って、noteで「国家 プラトン」と調べたが、あんまり人気がないみたい。1979年に発行されて以来、64回も重版されているのに、あんまり感想がないのはどうして?と思ったが、教養科目の教科書として買わされている学生が多いのだとか。

藤沢令夫という京大の教授が、古代ギリシア語の原典はもちろん、他国の訳も参照にしながら、丹精込めて発行したこの名著が読まれないままになっていることは、読了した身としては、悲しく思う。(とはいえ、主も敬遠したまま大学の2年半が過ぎたのであったが。)哲学が好きな人は、人生のどこかで必ず読むべき大古典なのだと思う。

自分でこの本を出してみろと言われても、同じものが作れる自信は皆無である。藤沢令夫先生もやはり類稀なる天稟の才を持つ方であると、読めば誰しもが悟ろう。


さて、要約は省く。内容が凝縮されていて、ほぼ削るところが見当たらない。無理に要約しては、後述するこの書物の良さをかえって失いかねない。一度読んだ人にこそ、読んでほしい。

『国家』の魅力は、その徹底した「弁明」にある。この本で述べられることは、いきなり聞けばどれも「は?」となるものばかりである。

・妻女と子供は共有されるべきであること。(要するに、乱婚状態かつ、別の種からの子供も息子、娘と呼ぶ。)
・魂には三つの部分がある。理知、気概、欲望である。
・正義とは「自分のことだけをすること」である。
・民主主義の自由は徳の喪失を意味する。
・魂は不死である。

などのことが平気で出てくるが、最初から読めば不思議と納得できる。
だからこそ要約の意味があまり無い。
(そして、それこそ「弁明」の力だと言いたい!!)


「弁明」は「証明」とは違う。「証明」は、数学における証明問題のように、命題の真偽を理路整然たる論理で抜かりなく示すことである。一方、「弁明」は弁護士がするように、たとえ詭弁であっても、正しいと認められさえすればいいというものである。『国家』でなされるのは、証明ではなく、弁明であると、主は思った。

そういえば、血管には血液を逆流することを防ぐための「弁」があるが、まさに弁明とは、反論(論の逆流)を防ぐためのものなのだと思う。
あるいは、身の程、善悪の分別、公私の別、礼儀といったものを「弁える(わきまえる)」というが、これも「それはそういうもの」と自身の心に言い聞かせる時に使う言葉であって、そこに「証明」的な何かは無い。信仰と言ってもいい。

ここまでくると、哲学というのは、科学とはどうしても違うことがわかってくる。いわば、哲学のうちに語られているのは、正しいと思われることであり、真偽の判定は神のみぞ知るというところなのだ。だからこそ、対話(ディアレクティケー)によって、常に他人と意見を出し合ってその真偽を議論しなければならない。いかにもソクラテス的というべき哲学の根本である。このことに気付けたことは、主にとって幸福であると思った……。(こんなことには哲学科なら早急に気づくべきだろうに……反実仮想……..)


では、予告の通り、主の生活の変化について話そう。
結論から言えば、娯楽の時間が0となった。あるいは、大学の授業への参加(+予習・復習・課題)、勉強、睡眠、散歩、食、風呂の時間以外の時間がほぼ無くなった。

「なんだそのつまらない生活は」と思った読書もいるだろうが、これからこの一見つまらない生活が幸福であったことを弁明するので、しばしお付き合い頂きたい。

『国家』において、詩(現代で言えば物語?)は悪であると述べられる。特に、ホメロスが書いたような、人が悲しみに暮れる様を美しく論じたり、酒に溺れて束の間の快楽を皆で喜ぶような物語は、法律によって禁止するべきだと述べられる。現代でいえば、回想シーンで感動を呼び、宴を良しとする『ONE PIECE』は圧倒的にアウトである。

この箇所についてのプラトンの言い分は、ざっくり言えば「魂においては、理性が欲望を制御している状態こそ望ましい」ということである。もっと言えば「悲しみに暮れる暇があったらいち早くその状況を打開して幸福になる道を考えんかい」ということである。その意味で、上記の物語は、人が抑えている欲望を刺激し、それを解放するきっかけになるからやめるべきだという主張である。

また「自分に適した仕事をする時間以外は何もしないことが正しい」とも述べる。

主は一旦これを信じて、読書8日目から娯楽断食というものをしてみた、というわけである。上の二つのことが同時に実行できると直感したからである。一人の時間にしていた、ゲーム、漫画、アニメ、youtube、音楽を断った。それらの時間は、散歩と睡眠にあてた。「何もしない」ということを行動に置き換える方法がこの二つしかなかったことは、何か深いものを示唆しているようにも思う。

ただ、こうすることで、学生の本分である「勉強」以外何もしない、が実現できた。体験してみると、それまでのように心が乱れず、常に勉強による報酬を感じられて、不思議な心地よさ、幸福があった。何より、日曜日の夜でさえ、幸福な気持ちで眠りにつくことができた。以前取り上げた「人は禍中にあるときよりも、福中にあるときに毅然としてあるべきだ」というあの金言が思い浮かんだ。


娯楽を捨てることがむずかしいんだよ!という人もいるかもしれないが、それは『国家』を読みながらもう一度考えてみてほしい、と思う。それほどの力が秘められた本だと思う。(今更だけれど、プラトンは本当に偉大。)


ただ、読了した今、素直に『国家』で言われていることが正しいと思っているわけではない。プラトンも、哲学的探求という名目の基で、物語的な面を持ったこの『国家』を書いたわけだし。結局、毒を持つ娯楽と、そうじゃない娯楽があるんだろうと、プラトンもそう思っているんだろうと、今は漠然と思っている。現代の脳科学で実験して、ある快楽物質を出す娯楽は駄目で、出さないものならいい、という弁明ができそうである。

そして実際自分も、勉強の一貫という名目の基で、娯楽的な面を持ったこのnoteを書いている。これがプラトン的にいいのか悪いのか、本人に聞いてみたいところである。

今後も、娯楽断食的なことはなるべく続けていきたいし、ここにまだ書いていないその効能もある。具体的には、「暇になることで他人の介入を受けつけやすくなる(むしろ欲する)」である。また後日書きたいと思う。


ではこのへんで。



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