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置かれた場所で咲けと言いますが

「置かれた場所で咲きなさい」という有名な本があります。

抵抗があって読んでいないのですが、
それは正しいけど、咲きようがない場所もあるだろ
というのが、タイトルを見たときの感想でした。

自分の努力でどうこうできるレベルでない環境も、どうこうできない相性の場所も、世の中にはあると思います。

(そういうことじゃない!読んでから言え!という感じだったすみません)

私が読まずにいる点はさておき
今日Voicyで精神科医の藤野先生がその本について触れていました。

そこで咲きなさいじゃなくて、全力ダッシュしてもいいよという話。

共感。

話の中で、有意味感のことがあったんですが、確かに私も仕事で咲けてる感があった時は、これを感じていました。
だから、すごくわかるなぁと思った。

で、咲けるかどうかって、個人の努力もあるけど、どうこうできるレベルじゃない環境の時ともあるし、その場所との相性がよろしくないとしか言いようがない時もあるじゃないですか。

砂漠で蓮は咲けないし、泥中でサボテンは生きられない。

こういうとき、話題になっている場所というのはたいてい仕事や職場で。
なのでそれを変えればいいと思うんだけど、そこを変えるのって、まぁまぁハードルがあったりしますよね。

あと、変えた行き先が咲ける場所かどうかも、変えてみないとわからない。

じゃあどうしたらいいんだ!
と叫びそう。

だからこの話の中で出てくる「サードプレイス」という案に、私はちょっと、いや、けっこうホッとしました。

それは、フットサルでもなんでもいい。

咲けていたときの私は、けっこうアクティブで、サードプレイスも持っていて。いろいろネガティブは感じるものの、そこでも咲いてる気分や有意味感は味わえていました。
(ざっくり10年以上昔の私ですが)

環境が変わって有意味感どこ?となっている自分になってからは、それが劣等感になり、昔の知り合いに今の自分を知られたくないからサードプレイスなんて場所も作れず。
勝手に人目を気にして、どこか避けるように逃げるように生きていて。

仕事で咲いていないといけない。
その価値観にがんじからめ。

置かれた場所で咲けるのが最高だと思います。

ただ、もしそれがしづらい場所ならば、そもそも居場所を変えていいし、変えるのが今はハードル高いならサードプレイスを作ればいい。

居場所を変えてもサードプレイスは持ち続ければいい。

そのどこかで有意味感を満たしていけばいい。

そして、このご時世、サードプレイスはリアルな場所じゃなくてもいい。
InstagramでもXでもnoteでもオンラインコミュニティでも。

置かれた場所に関わらずサードプレイスは持ち続けようと思ったし、私はそのひとつとしてnoteでの発信を続けていこうと思います。

なんだか途中で話がズレた気がするけど、今回の藤野先生の話がとても響いたという話でした。

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