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最近、怒りが見当たらない。そして他の感情にも自信が持てなくなった気がする。

旅の間に考えたこと。

朝から川に入った。
気温がまだ上がりきらないから水温は驚くほど低い。
連れて行ってくれた宿のお兄さんは全身をびたびたにしながら、「頭まで入っちゃえばなんてことないですよ」と笑っていた。
比較できるから冷たいと思うのであって、すべてがそうなら冷たいとは感じられないのかもしれない。
飛び込めばなんでも、案外怖くなかったりする。


朝ごはんを食べた後、今度は1人で川に向かった。
誰もこない。
ワンピースを放って下着のまま川に飛び込んだ。
めちゃくちゃ冷たい。
頭まで潜っても普通に冷たい。
なんだよ、冷たいじゃん と叫ぶ。
でも、だんだん感覚が鈍くなって本当に冷たいのかわからなくなる。
岸に上がり、四肢がじんじんと熱くなるのを感じて、あ、冷たい場所にいたんだなと気づいた。


前の晩にセラピーを受けた。
セラピーといってもスピリチュアル的なものではなく、少し変わったオイルマッサージという感じだった。
事前問診票に「最近怒ったことは?」という質問があった。
受付のテーブルでだいぶ時間をかけて思い出そうとしたけど思い出せなかった。
個人的な怒りの感覚がどうしても思い出せない。
わたしが少しでも機嫌を悪くしようものなら泣いてしまう、昔の恋人のせいでこうなったんだろうか。
前職時代はよく怒っていた。特に上の人たちに対してなぜかいつも腹を立てていた。
怒りはエンタメで、許せない、という感情がわたしをハイにさせてくれていた気がする。
周りにしてみたら迷惑極まりない話だ。


怒りが人生から消えて、なんとなく生きやすくなった。
個人的な怒りは金にならないから、抱えていても胸糞悪くなるだけ。
怒りを振りまいてる人を見ると(例えば、TwitterのTLでよくお見かけする知らない人とか)、
そんなに胸糞悪さを量産して苦しくならないのかしらと思ったりする。
頭も体もまるで違う人間が一緒の星に生きている以上、そこに絶対的な正しさもないし、悪もない。
なぜそんなに自分が正しいと確信して怒れるのか。自分にもあるだろう非や至らなさをどうしてそんなに高い棚に上げられるのか。


怒りが人生から消えて、もちろん弊害もある。
強さがなくなった。
道を切り拓いて行くような、突き刺すような、戦うような、そういう強い芯みたいなものがどこかにいってしまった。
折れた、とは違う。
溶けてなくなってしまった感覚に近い。
溶けてなくなり吸収されて、だからもうどこにもない。
芯のない体はくにゃくにゃとしていて動きやすい。動きやすいけど水の流れに逆らう意志を持つことが難しい。
他の感情も、なんとなく、昔よりぶれが現れるようになった気がする。
川の水の冷たさを、痛烈に感じるもののすぐにわからなくなり、岸に上がってから改めて感じるような。
「ああ、今冷たかったんだ。」

話は少しそれる。
ここ最近、好きな人がいる。
(わたしのいう「ここ最近」は一般でいうところの尺とちょっと違うらしいが、まぁとりあえず好きな人がいるのだ。)
その人とは、なんらかのよい結末を迎えられそうにないことが、すでにわかっている。
わかっているままずっと好きでいられるのか、が今一番の関心ごと。
その恋にまつわる話を友人にひとしきり話した後、ねぇ、れいちゃんはどうしたいの?と聞かれた。
よくわからなかった。
このまま永遠にずっと今が続いてくれるならそれが一番。
わたしは誰ともどうともなりたくない。
恋みたいな顔した何かが人生にへばりついてくれてたらそれでいい。


と、この間まで思ってたんだけど、単にこれは感情が遅れてきているだけで、いつか悲しくなったり切なくなったり、
はたまた怒りに狂ったりする日が来るのかもしれない。
ほんとは心のどこかが傷ついたりしているんだろうか。
川からの帰り道、アブに怯えながらそんなことばかり考えていた。

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