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『ゾンビ薬・他人薬・毒薬』と『ボストークの氷核』の視点的考察

はじめに

昨年後半、私の意識(永井均さんのいうところの〈私〉)の消去を扱った興味深い作品が二つnoteに投稿された。
顔アカウントさんの『ゾンビ薬・他人薬・毒薬』と魔神ぷーさんの『ボストークの氷核クリスタル』だ。
顔アカウントさんによるとこの二つの物語は対をなしているらしく、そう言われて読んでみるとたしかに、この二作品には同種の、しかし対照的な奥行きがあることに気づかされる。

その奥行きを作り出しているのは、物語の視点だ。
読者は物語を読むに際して、それぞれの物語の形式に応じて一人称、二人称、三人称など様々な視点からその物語世界を開闢することになるのだが、この二作品ではそれぞれに違った形で二重の視点が扱われていて、それが各々の物語に物語的、哲学的な奥行きを与える結果になっている。

『ゾンビ薬・他人薬・毒薬』

『ゾンビ薬・他人薬・毒薬』は、一人称の「私」が二人称の「あなた」にむけて自殺のための薬について説明する物語だ。
薬には毒薬、ゾンビ薬、他人薬の三種類があるのだが、とりわけ重要なのが三つめの他人薬だろう。
物語のメインテーマは「他人薬を他人に飲ませるとはどういうことか」であり、これはそのまま終章のタイトルを飾っている。

物語の視点という側面からいえば、この物語には二通りの読み方がある。
一つめは、「私」に語りかけられる「あなた」となって、二人称の視点から物語世界を開く読み方だ。読者の多くはまずこの「あなた」視点で、薬の説明を聞く立場に身を置いて物語を読んだのではないだろうか。
二つめは、「あなた」に語りかける「私」となって、一人称の視点から物語世界を開く読み方で、実際に声に出して朗読するとこの読み方になりやすい。そのとき私たち読者は、薬の説明をする「私」となって登場人物である「あなた」に語りかけることになる。

つまりこの『ゾンビ薬・他人薬・毒薬』という文章は、「あなた」の視点から開闢かいびゃくされる「あなた」の物語世界と、「私」の視点から開闢される「私」の物語世界という異なる二つの物語世界を内包しているのだ。

そして、そのいずれの読み方をした場合でも、私たち読者は物語の先で一つの問に行き当たる。
それが先にもあげた「他人薬を他人に飲ませるとはどういうことか」という問だ。

この問がこの物語のメインテーマたる所以は、それがそのまま『ゾンビ薬・他人薬・毒薬』という物語を無意味化してしまう毒薬となっているところにある。

他人薬を他人に飲ませることの無意味さを突きつけられるや否や、それはそのまま「私」が「あなた」という他人に自殺の一手段として他人薬をすすめることの無意味さとして、この物語自体に跳ね返ってきてしまうのだ。

他人が他人薬を飲んだところで他人のままなのだから、私はそこに意味を見出すことはできない。
たしかにそのとおりのはずだ。
しかし、だとしたら、なぜこの物語の語り手である「私」は、他人である「あなた」に自殺の手段として他人薬をすすめるのだろう?
「私」にとってそれはコップ一杯の水をすすめるのと特に変わるところのない行為であるはずなのに……。

「あなた」視点で読んでも「私」視点で読んでもその疑問が解消されることはなく、私たち読者は自分たちが何を読んでいたのか、どのような読み方をしていたのかを見失ってしまう。
私たちはここで、ついさっきまでその意味を理解しながら読んでいたはずの物語が、問の毒に侵されるようにして瞬く間に意味を喪失していくさまをまざまざと見せつけられる。

では、これがこの物語のほんとうの意味なのだろうか?
有意味に思えていた物語が、じつは無意味であることを体感すること。
「私の意識」なるものが語りえぬものであることを実感すること。

いや、そうではないだろう。
なぜなら、この毒に対する薬もまたこの『ゾンビ薬・他人薬・毒薬』の中に示されているからだ。

先にも述べたように、この物語は「あなた」の視点から開闢される「あなた」の物語世界と、「私」の視点から開闢される「私」の物語世界という異なる二つの物語世界を内包している。

ここに、この物語を有意味に読みうる三つめの読み方が隠されているのだ。
それは、異なる二つの物語世界を併存させる読み方、この物語を「私」の物語世界の「私」が「あなた」の物語世界の「あなた」に語りかける物語として読むという読み方だ。
そのとき、私は特殊な自問自答のように「私」として薬の説明をしつつ、同時に「あなた」としてその説明に耳を傾けることになる。
この『ゾンビ薬・他人薬・毒薬』を、そのような二つの異世界間の応答の物語として読むとき、私という語の意味はそれぞれの世界間で輸出入されて、「他人薬を他人に飲ませること」は「他人薬をあっち側の世界の私に飲ませること」へと意味を変えて、『ゾンビ薬・他人薬・毒薬』は再びその意味を取り戻すのだ。

しかし、世界は本来――それが物語世界であろうと現実世界であろうと――それが開闢されるときは常に一つの視点からのみ開闢される。
それゆえ「私」の物語世界と「あなた」の物語世界は決して並び立つはずのない世界だ。
その事実を無視して、物語の外部に存在する自由な読者として異世界間を傍若無人に行き来するとき、私たちはようやくその問に答え、この物語に意味を見出すことができるようになる。

この『ゾンビ薬・他人薬・毒薬』という物語は、そのような問と答えのあり方が物語の形式のうちにあらかじめ示されている物語なのだ。

『ボストークの氷核クリスタル

『ゾンビ薬・他人薬・毒薬』ではゾンビ薬や他人薬を飲むことの意味を教えられたが、魔神ぷーさんの『ボストークの氷核』では一転して、私たちはその薬の効果を体感させられることになる。

この物語のはじまりは、「私」の視点から語られる一人称小説であり、私たち読者はこの「私」とひとつになって、その視点から物語世界を開闢していく。

その世界の中で「私」は、それを壊してしまったら ”ある意味では、何も起こらない。だがまたある意味では、全てが終わる”という一際輝く一個の氷核を発見し、そしてうかつにもその氷核の破壊を許してしまう。

一際輝く氷核の破壊は、『ゾンビ薬・他人薬・毒薬』でいうところのゾンビ薬または他人薬を飲むに等しい、世界を開闢する私を消去する行為だ。
Kのピッケルが「私」の一際輝く氷核に振り下ろされて、「私」の世界は音もなく終わりを告げ――、

そして、事態は急変する。

「ホントだ。何も起こらないね!」

「私」の世界が終わったにもかかわらず、物語は終わらない。

前章まで地の文として、世界と地続きになっていた「私」のセリフは今や鉤括弧にくくられて対象化され、ここがもはや「私」の世界の中ではないことを私たち読者に告げている。

かと言って、ここはKの開闢する世界でもない。
Kの一際輝く氷核もすでに壊されているし、Kのセリフもやはり鉤括弧にくくられている。

しかし、誰も開闢していない世界などというものは存在しない。

ではここはいったい誰が開闢する世界なのだろうか?

気がつけば物語の視点は、「私」の視点でもなければKの視点でもない三人称視点に無断で切り替えられていて、私たち読者は登場人物の誰かに身を寄せることもできず、物語内に自分自身の身体を与えられるわけでもなく、いわば生身の、むきだしの視点となって物語世界を開闢することを余儀なくされている。

ここはつまり、まさに今この『ボストークの氷核』を読んでいる読者である私が開闢する世界となっているのだ。

私は、その私の世界の中で「私」とKの不穏な会話を耳にする。

「いやーいい気分だ。他の氷核も壊そうか!」
「いいね!じゃんじゃん壊そう!」

私の開闢する世界の中で氷核を壊されることの意味に気づいて、私は慄然とする。

「アハハハハ、楽しいね!」

終章に地の文は一切ない。
その茫洋とした行間の中、氷核を壊してまわる「私」とKのその哄笑の隙間に、私は一際赤く輝く氷核●●●●●●●●を垣間見る。
しかし、「私」もKもその輝きに気づく様子はまったくない。
二人のピッケルがその氷核の上に振り上げられて、私は制止の声ならぬ声をあげるが、彼らの耳には届かない。

「アハハハハ、楽しいな!」

漠々たる氷の天蓋が数十万年ものあいだ守り続けてきた湖上の空間に二人の笑い声がこだまする中、二挺のピッケルが無情に振り下ろされて、一つの氷核が砕け散る以外は何事も起こることなく、ただ物語が――、世界が――、私が、終わる。

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