雪のち桜【帰らない】


乳白色の点滴薬。

透明やら黄色やら、一日中、胸に繋がれた管を通って体に入っていく液体。

それにしても、ご飯を食べない代わりの栄養液とはいえ、乳白色の液体が血管に入っていくのを見るのは、あまり気分のいいものじゃないな。

ぼけーっと点滴袋を見ていると、突然、ベッドのカーテンが開いた。

少しビクッとなりながら、振り向くと、そこには母の姿。


「びっくりしたよ。なんで、入院前に電話しないの! いきなり今入院しているって電話かかってきて、嫌いな飛行機乗って急いできたわよ。」

「で、病気はどんな感じなの? 感染症って、ここ大部屋じゃない?」

早口で、しゃべる母。


「あー、感染症って言っても、普通、子供のときに90%以上の人が患って、免疫もっているんだって。大人になってからだと重症化することがあるけど、ここまで酷くなること珍しいって言われた。それに、唾液の交換とかでうつるから、大丈夫だって」

「唾液の交換って……」と苦笑いの母。


「あはは、彼だよね。でも私が免疫もってないないなら、いつかは患っちゃうんだから、相手が、ケイくんでよかったよ。お母さん! いつかは患うはずだったんだから、ケイくんを責めないでね」


「でね。こっちは数ヶ月で元に戻ると言われたけど、もう1つの腸の病気の方がね。死にはしないけど、治らないんだって。よくなったり悪くなったりしながら、ずっとだって」

「検査のカメラで見たけど、血だらけで気持ち悪すぎて意識飛びそうだったよ」

「でも、なんか特定疾患とかいって、治療費も薬も、ただになるらしいよ。すごいよね、ラッキーだよね」


私は、早口の母とは対称的に、ゆっくりと話した。





気がついたら母は俯いていた。


『あれ? 聞いてない?』

病状を聞かれたから、懸命に話をしたのに。


『なによ』と思いながら、自分の顔を触ると手のひらが、びっしょりと濡れた。

『あれ? 何で濡れているの?』とはじめは分からなかった。



私は、泣いていた。

泣いていたことすら、気がつかなかった。


体もボロボロだったけど、すでに精神の方も壊れはじめていたのかもしれない。


私が自分で泣いているのに気がついて、固まっていると、俯いていた母が、顔を上げて、明るい声で言ってきた。

「カナ…… 帰ろう。地元に帰ろう。大学も辞めて、病院も変わって。そしたら毎日、お母さん、来てあげられる。退院したら、また家族で暮らそう。お父さんも喜ぶよ」


「やだ! 帰らない」

「学費だっていっぱいかかってるし、卒業もしないで帰ったら勿体ないよ。お母さんにもお父さんにも申し訳ないし」

「それに、それに……」

私は、この時、ケイくんと一緒に居たいから帰りたくないとは、言えなかった。帰りたくない本当の理由を言えなかった。


「学費や卒業なんて、どうでもいいのよ。どうしても行きたいなら、通信とかもあるし。あ、そうだ。たまたま、今住んでいる家は中古でボロボロだから、新しい家を買おうってお父さんと話していたの。カナの部屋もちゃんと作ってあげるから。もう少し先だけどね」


そして、母は、私が人生で聞いた、おそらく一番優しい声で、続けた。

「ごめんね。カナは子供のときから、体弱かったもんね。強く産んであげられなくて、ほんと、ごめんね。大丈夫。ずっと一緒いてあげるから。ね。だから、帰ろ」


もう、頷くしかなかった。


そして、決めた。

帰ろうって。


ケイくんに、ちゃんと別れを言って、帰ろうって。







そのはずだった……




つづく

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