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泡日記 古書と詩に出会う

長い息子の夏休みが終わり、日中の静かな時間が再びやってきた。夏休みは少なくとも私にとっては休みではなかったなぁ。もっと私がする事をちゃちゃっとこなせる人であれば良いものを、息子ひとりでも家にいるとそれぞれの生活が混ざって中途半端な体をなす。私は家事の合間の読書や書く時間を持てないと思い始め、息子はサッカー以外の時間の使い方に戸惑い、何をすればいい?と私に聞いてくる。そうこうしているうちに「あらもうお昼だ。え、もう晩ご飯?」と、食事の支度を時計代わりに体感する日の過ごし方をしてしまう。
自分が停滞しているので、しばらくの間は意図的にSNSから遠ざかった。着実にかつ素敵に活動している人々の姿を見ると、落ち込むだけなのが目に見えたからだ。
朝の散歩でほんの少し太陽の照りつけ具合が柔らかくなった気がして、これを無理やり秋の気配と思うことにした。秋分の日に向けて太陽は少しずつ角度を変えていくので、これは多分その兆しのはずだ。1週間前に一度聞いたツクツクボウシの声は、あれ以降聞こえてこない。

秋の気配を感じ、久しぶりに日中の一人時間が得られたので本を読みたい気分になった。この夏の間にも全然読む気分じゃないと言いながら本屋には通い、そこで買い求めた本が溜まっている。どれにしようかと考えて、先日学大のSUNNY BOY BOOKSさんで買った古本を手に取った。(SUNNY BOY BOOKSさんには私のZINEを置いていただいています。)

SUNNY BOY BOOKSさん 憧れの書店に作品がいる幸せ
えへへ、ちょっと宣伝すいません。
(※許可を得て撮影しています)


淡い水色の表紙に涼しげな貝が二つ。一つは骨のような見た目で砂地に影を落としているから、海中を描いたものだろうか。詩人、川崎洋の「ひととき詩をどうぞ」を開いた。SUNNYさんで見つけた時は、川崎さんなら茨木のり子に触れているに違いないと思ったのだけれど、目次を見て違うとわかった。川崎洋は茨木のり子と共に同人誌「櫂」を創刊した人として名を知っていた。以前読んだ「清冽 - 詩人茨木のり子の肖像」の中で、若い川崎さんが年上の茨木さんに同人誌をやろうと手紙を出したのがきっかけだったと記憶していた。茨木さんの評伝を通して志のある熱い方という印象を持っていたけど川崎さんの詩や文章を読んだことはなかった。買い求めた本は表紙の与えるイメージのまま、川崎さんが心に留めた詩を、作者の遍歴やその詩が生まれた背景と共に分かりやすく解説している一冊である。川崎さんの穏やかな文体も読んでいて心地よい。

不勉強だからほとんど知らない詩人ばかり。明治や大正生まれの方もいて、おのずと詩が書かれた時代に起こった私の頭にある少ない知識を引っ張り出して、想像しながら読む。その頃は祖父が若く血気盛んでやんちゃしていた頃だろうな。母がほんの幼女だった頃に、この詩人の生活の中ではこんな詩が生まれていたのか。こうして身近に引き寄せて未知の作者の作品を読むのは面白く、情感もより直に迫って摂取しやすい。詩人と身近な人間とは取り巻く環境は違っても同じ時代背景を生きていたはずで、その空気を視点を変えて感じることが私はどうやら好きなのだ。

表の庭には籾筵が
日にてらてらと干されているのに
大きな家の中は
陽蔭の匂ひが冷たかった
入り口の土間は一日中薄暗く冷え続け
上り框のずっしり重い大黒柱は黒光りして
七輪や膳の何時も台所の静物が
無心にうつっていた
戸棚の上にかけられた古ぼけた時計が一つ
ふと しじまの隙から
コチ、コチ、コチ、コチ、と
広々とした畳の上に落ちていた

堀内幸枝 詩集「村のアルバム」より 昭和20年刊

作者が一五歳から二十歳ぐらいの間、山梨県の山あいの小さな村に暮らしていた著者が見つめた当時の暮らしの佇まい。青年たちはみな戦争にとられて行って、恋を語る相手は周りに誰もいなかったと詩集に寄せて書かれた詩人の文章がある。茨木さんの「私がいちばんきれいだったとき」の数行がぐらりと頭に浮かんでくる。多感な少女時代というのでひとくくりにできない、いつでも等身大の心が動いていた事を詩に、言葉にしてくれていることに感動する。そして、この詩集が編まれた当時、三つ四つだった幼い私の母は、どんな心でいただろうかと考えるのだ。



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