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犀の名で歩く

「犀子」は、私が文章を書くために自分でつけた名である。
初めて犀という字に意を止めたのはある本の中でだった。残念ながらその本はもう手元になく、書名も著書名も失念してしまっている。ある時期、本から本へ連鎖して図書館で借りまくって本を読んだ時期に、どこかの随筆の中で出会ったはずだと、ぼんやりとは覚えているのだが。

本の題名は覚えていないのに、言葉に出会った時のことはよく覚えている。私はちょうど仕事場のデスクでコンビニ弁当を食べ終わり、本の続きに戻ったばかりだった。読んでしばらくして、「犀の角のようにただ独り歩め」と書かれた一文にあたった。

犀の角のようにただ独り歩め。

それはブッダの言葉で、自ら孤独の中に立ち、犀の角のように独りで我が道を歩みなさいというような教えであったと記憶する。

私はマウスの横に転がしていた黄色い付箋に、「犀の角」と走り書いてキーボードの隅に貼った。それぐらい全ての文字を書くには小さい付箋だった。時にノートに引っ付き、時にセーターの袖に”ぺっ”とくっついても、すぐ気が付いて元の場所に戻した。粘着力が弱くなってからはセロテープで補強もした。気づけばそれから数年もの間「犀の角」と書かれた付箋は私のデスクに存在し続けた。キーボードの上に貼られた謎の文言を見たであろう会社の面々も、特に質問してくるようなことは無かった。

***

中学生の頃、両親に代わって親戚の結婚式に出席したことがある。母方の兄妹の娘さんなので私にとっては従姉にあたる人だけれど、年も随分離れていたし、何より親戚関係が複雑になって疎遠だったため交流はほとんど無かった。
「悪いけど代わりに行って来てくれへん?」と母から突然言われたのは、結婚式がその週末に迫っている頃だった。両親は数か月前の招待状には出席の返事をしたのだけれど、ギリギリになって行けないという選択をしたのだ。「やっぱり顔を出されへん」と母は言ったと思う。父のつくった借金のために、母は自分の兄妹達に頭を下げ、お金を借りていた。
「あなたは子供だから何も言われない。私たちの代わりに行って来て。」

私はもう中学生だし、ずっとこの環境の中で生きていたので、大人の事情は察しはつく。喜びの席に出席しない選択ができなかったのは兄妹間での顔が立たず、当人が出たら出たで居たたまれないだろう。
私は何も分からない顔で愛想を振りまく事もできる、ずるい子供であった。稼ぐことが出来ない子供の身でできることは、「子供」の鎧を着て、家族を守ることだ。でもその時は単純に、華やかな結婚式を見てみたいというミーハーな気分もあったのだ。

母の名前の書かれた席に座わり、食べたことのない豪華なご馳走を食べた。ほとんど顔を会わせた事のない従姉のお姉さんが、真っ白で肩の張ったウェデインングドレスを着て向こうの席で笑っていた。それを無邪気に楽しめる時間がここにはあって、私は親戚の丸テーブルの母の席で、張りつめた気をほぐそうと思った。
会場が歓談を楽しみ、お酒も入った大人たちの楽しそうな会話が聞こえてくる。私はここに紛れて黙ってご馳走を食べていればいい、そう思っていた。するとふいに隣の席の叔母が笑顔で顔を近づけて来た。
母のすぐ下の妹で朗らかな性格の叔母である。周りの声がうるさくて聞こえないから「はい?」と私もそちらに体をむける。
「あんたはこんな結婚式なんか、したらあかんのよ。」

それからの事はあんまり覚えていない。涙をこらえるのに必死で、目の前のご馳走も喉を通らなかった気がするけれど、私の事だからそういう訳にもいかないと思って、しっかり食べきっただろう。
両親が聞いたら辛いと思って、そのことは誰にも言えなかった。必死でこらえたから、周りの親族たちも前後と変わらない態度で、様子がおかしいとも思わなかったろう。
叔母の、私以外の誰にも聞こえない声でささやかれた言葉は、意地悪でしかない。私は叔母ではないから、この本意のようなものも理解はできていないだろう。でも、それをあんなに朗らかな叔母に言わしめるほど、迷惑や私が知らない痛みを、うちの家族が掛けているのだという事は、思い知った。

あの時、堪えずに涙を流していればよかったなと今なら思う。何かを変えられるなら、あの席での我慢の後始末だ。泣けていれば、その後は違った私が形成されたかもしれないと、ずっと自問している。
確かなのは花嫁が祝福を受けたあの日、私は自分で自分の足に、見えない鉄の重たい鎖をつけたということだ。

これは罰のようなものだから。
親が迷惑をかけた分、私は幸せから距離を取らなければいけない。

叔母に言われたその一言は、多分言った当人はもう忘れているような些細な一言だ。それを楔のようにいつまでも意識しているのは私なのだ。隠れようと思う気持ちは、いつのまにか対象が叔母から輪が大きくなっていった。親族から、団地の友達のおじちゃんおばちゃん、それから高校の部活仲間やその親達、それから…などなど。
嬉しいことや幸福なことを体験すると、嬉しい反面、どこかでその後のちょっとした不幸に怯えた。
そうでしたよね、今のはごめんなさいと、姿の見えない誰かに弁明した。
そんな心癖をもったままの、私はこの仕上がりの大人になっているのだった。

***

最初に犀の角の文言に当たってからも、度々本の中で同じ文言に触れた。「柔らかな犀の角」という俳優の山崎努さんの読書日記の本で。そしてそこでも紹介されている鶴見俊彦さんの「かくれ佛教」で。
キーボードの付箋はぼろぼろにしながら、私の心の核の中に「犀の角…」が繰り返しインストールされていった。いつか、自分の「ただ独りで歩める道を歩む強さ」を持ちたいと。でもすぐに、そんな願いを持つことが誰にもバレませんように、とかも思ってしまうのだけれど。

noteを書きはじめるにあたって、違う名を自分に与えたかった。犀の字がすぐ浮かんで、そしてちょうどそれが新緑の頃だったのもあって、青葉犀子とした。
名が与えられても書いている本人の性格は変わらないので、青葉犀子もおずおずと、おっかなびっくりの歩みのままで今も書いている。

2022年になって、新たな名前で新しい学びの世界に飛び込んでみた。
私のやりたいことの為だけにお金を使い、時間を使うのを、やはり私は躊躇した。足の重りにはついたままで、重りもその気配に気づいただろう。
悩んで悩んだ。それから、生れた時の名とは違う名だからちょっと薄いでしょう?と、言い訳にならない言い訳をして踏ん切った。自分が嫌になるけど、行きつく先は同じでも、決断に時間がかかってしまう。

学びの場は、今まで経験したことのない心の弾みと、生き方の許容と、自分の可能性のようなものを夢に描いてもいいんじゃないかなって、思える勇気を得られる場であった。

西の方角から相変わらず家族の問題はやってくる。あの頃と同じじゃないかと私の心癖はすぐ反応して、罰の事や手放して道々に残してきた数多の欲の事を思い出す。
でも青葉犀子はこのままで、この言葉を私から自戒を込めて贈ろうと思います。
「犀の角のようにただ独りで歩め」
遠くは見えなくても、犀が歩む道の一歩先を照らして、歩め。

大切な友が描いてくれました。
私の分身となったこの犀は「キタシロサイ」です。
2018年に最後の雄(スーダン)が亡くなり、今は世界にメス2頭(娘と孫)を残すだけとなりました。
私のアイコンとなる画を依頼した時、
友人はキタシロサイを選び、私にそのことを教えてくれました。
そして左足を1歩前にだし、歩み出す姿で描いてくれました。
心して、この犀と共に歩みます。

画:鳥類菓子図録





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