『聲の形』──誰もがあの教室の〝誰か〟だった
何度見ても心にくる名作『聲の形』。金ローで4回目の視聴をしたが、まだまだ感想が書けそうだ。
聲の形は残酷な映画
アニメっていうのはたいてい娯楽だ。みんな夢が見たい。憧れを再現したい。異世界に行きたい。
そんな中、リアルを描く聲の形は残酷な映画。だと思う。
目を逸らしたくなること、目を逸らしてきたことを今一度、視聴者に叩きつける。
砂をかけたり、水の中に落としたり。落書きをしたり・・・そこまでやるのかって思うだろうが、これはリアルなんだ。
作者だって描きたくて描いているわけじゃないだろう。
だけど、無能な教師も、被害者ヅラするやつも全部含めてリアルなんだ。そのリアルさこそが『聲の形』を娯楽や商品以上の作品に昇華した。
僕はそのリアルさがとてつもなく好きだ。だから良い意味で残酷な映画と言っている。
誰もがあの教室の〝誰か〟だった
聲の形のすごいところは誰もがあの教室の〝誰か〟だったと分かるところ。をまるで、
「君もイシダのようにいじめてきただろう?」
「君もカワイのように一緒に笑っていただろう?」
「君もその他のモブのように止めなかっただろう?」
「君は大人なのに無視しだろう?」
と、言われている気がしてならないところだ。「ほら、この通りだろう?」と、見るたびに胸が痛い。
過去の自分に指をさされているようなそんな、気分。
あの教室はフィクションの中の1つじゃなくて、みんなの中にある。そして今もあんな教室がこの社会に存在しているんだ。
取り返しのつかないことをした彼らを許せるか?
聲の形の視聴者が試されているのはこれだ。
イシダを筆頭にカワイやウエノを許せるか。作中の中でもあの教師とカワイは特に嫌われている。
「カワイを許すな」だとかもTwitterで多くの反応がついていた。だけどそれじゃ同類じゃないか?
でも、そうじゃないよ。聲の形はそんな形の映画じゃない。
ニシミヤのようにイシダを受け入れられるか。1度失敗した人にもう一度チャンスを与えられるか。
僕はそれこそが『聲の形』を見た人が考えるべきところだと思う。
イシダは自殺しようとした。
それは己の行いに罪を感じたから。そんな自分を周りに拒絶されたから。
もしもイシダを受け入れてくれる人がいなかったら彼は、あの後も自殺をしようとして、彼はいつか死んだ。
だけどニシミヤはイシダを受け入れた。イシダはチャンスを与えられたんだ。償うチャンスを。やりなおす機会を。
もちろん許さないというのも答えの1つだ。だけど、社会には少数派でも良いから許す人・受けれいる人が必要なはずだ。
聲の形のカタチ
僕はこの『聲の形』の答えというか、この映画をたった一言で表すなら、このセリフだと思う↓
「まあ、それがアンタか」
ウエノのこのセリフこそ聲の形のカタチ。答えだと思う。
許す・許さない
受け入れる・受けれいれない
そこで答えが割れたとしても「それがアンタか」と認めることは誰にでもできるはずだ。
ウエノとニシミヤの関係性こそ、いじめを生まない人間関係の答えだと思う。
相手を嫌いなままでいい
相手を理解できなくてもいい
だけど『そういうやつなんだ』と、他人として認める。自分とあいつは違うんだって。ただそれだけで、良いんだ。
まとめ:聲の形は5億回見ろ
聲の形は見れば見るほど、発見・気付きがある。おそらく初見は感情的になって、許せないやつが出てくる。
僕もそうだった。「カワイぶ○っころしてえなあ」って。
だけど2回目で視点を各キャラクターに合わせてみたり、小学生目線でみたり。そうしていると「こいつ言い方はあれだけど結構これって言ってることは合ってるのかも」なんて思える。
今回僕はウエノの印象が変わった。「ウエノこいつ、意外と言ってること一理あるな」って。
いただけない発言や行為はもちろんある。でもすべて良い人なんていない。完璧な人なんていない。
それもこの作品の良いところ。ある場面では良くても、ある場面では間違っているかもしれない。
アンパンマンは正義でバイキンマンは悪。という風にキャラのポジションが固定されていないんだ。
たとえばニシミヤをこう言うのは気がひけるが、やはりウエノの言う通り「まわりを理解しようとしなかった」点はあると思う。
「それはまわりがああだから」というカウンターもわかるけど、片方が寄り添ってもダメなんじゃないかな。
と、ほんとこの作品はまだまだ見たりない。いつになったらカワイを許せるだろうか。僕はまだ彼女を許せない。というか、嫌いだ。
だけど後、何回か見たら彼女の気持ちも理解できたりして・・・
以上です。聲の形、ぜひなんどもなんども見てくださいな。
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