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涙だけが現実に持ち出せる夢の証拠

 

 朝、とても悲しい夢をみた、という感覚だけが残っている今。風が強まったり弱まったりしながらも、その間に雨も降ったり止んだりしている。


 目が覚める直前、夢の中で号泣していると自覚しつつも泣くことをやめられず、自分の嗚咽が耳に届いてからだんだんと夢から遠ざかってゆき、それでもなお悲しい気持ちとその映像は瞼の裏で見えていて、どうにか目を開けて薄暗い天井を捉えてからやっと、自分の顔が泣き顔で歪んでいるその表情筋を意識するうちに涙が引いていった。とにかく悲しかった。誰かを失った気がする。

 なんとも言えない気持ちのままのろのろと台所へ行って白湯を飲み、それでも喉が渇いて仕方なかったので水を飲んだ。どれだけ泣いたか知らないのだけど、水分が抜けきっていた。

 再び布団へ潜り、悲しい夢のままでいられないからもう一瞬だけ寝てやろうと思い目を閉じた。そうすると今度は母親に髪を切られる夢だったのでまた起きた。別に嫌な気はしなかったけれど、もう起きてしまうほうがいいやと思い、活動を開始した。


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 読んで仕舞えばあっという間やと思っていたけれども、隙間隙間で読んでいるとなんかやっぱトータル20頁も読めてないな、という状況で、どうしたもんかと思う。家事炊事来客対応だのやってたら仕方ないのだけれど、少しでも読めただけいいかということにする。それと同時に学びたいことが別のものを見たり読んだりしているうちに、神道と仏教の勉強がしたいと思うようになっていて、とはいえ色々書物があることは重々わかっているので何から手をつければ良いものか…と考えているところ。特に神道について学びたい。


 今日から新しくおろすつもりでいたノートを見失ってしまい、別のノートを使おうかと思って一応出したけれども、あの、『そのつもりでいた気持ち』をデリートもしくは上書きすることがなかなかできなくて、少し躊躇っている。いっそ新しいノートを買ってこようかなと思う。あるはずだと思ってなかった時のショックってすごいよね。へなへな、と萎えちゃう。出鼻くじかれまくってしまった。


 夜は友人と長電話をしていろんな話をした。時間を気にせず楽しめる数少ない友人の一人で、早くこんなご時世どうにか落ち着いて欲しいし飲みに行きたいね、と言い合ってどれほど経つだろう、ワンクッション挟まないといけないのが人間関係だけではないんだから今は大変センシティブなところにいるよね。抱きしめる一瞬にためらいを感じる経験をした私たちって、心は強くなっているのだろうか。


 今日は話があっちこっちいっちゃうくせになんてことはない話なんだけど、会話の中で時々『なんでもいいよ』とか『どっちでもいいかなって』って返事をするとき、好きでも嫌いでもないという心の感触は、感動を遠ざけてしまうなあとぼんやり思った。本当に相手のことを思って、気遣った上での『どちらでもいいよ、あなたの好きな方でいいよ』というのはまだいいけれど、考えることをやめた頭で、誰のなんのためにもならない『なんでもいいよ』『どっちでもいいよ』はとてもひんやりしている。言葉の中に身が詰まっていない上に、相手を不快にさせる言葉だなあと思う。言った後に反省した。これからはもう言わないでいたい。


 明日は友人と外出する。本屋さんへいく。先月我慢していた分がここにきて爆発している。控えるつもりではいるけれど、学びたいことの本があるのであればいいなという感じ。あればね。


 また明日。

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