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【短編小説】好きにも嫌いにもなれない彼女(後編)

今日の嫌味ババアの説教は長かった。

“嫌味ババア”こと芳子よしこは、ファストフード店「バーガーキッチン」の勝手口の裏にあたしを呼び出すと、そのまま長いこと解放してくれなかった。

「美香さんあなた、もともとミスの多い子だったけど、今日は一体なんなのよ。注文間違えたり、手を滑らせて床をコーラまみれにしたり。あなた、仕事をナメてるでしょう。そういう子がいると、はっきり言って迷惑なのよね」

そんな話が10分以上続いた。嫌味ババアの悪態に、いつものあたしなら少しは抵抗するところだったが、今日はその元気が出なかったので、一方的に聞きおいた。というか、心を無にして聞き流した。

このバーガーキッチンは、本社から送り込まれた35歳の店長と、バイトの若手達とおばさん達で成り立っている。嫌味ババアは50歳ぐらいで、ほうれい線がくっきり目立つ、くたびれたおばさんだ。


帰り道、バイト仲間の“サナちゃん”こと早苗さなえに、嫌味ババアとの今日のやりとりをLINEで伝えた。
数分後、サナちゃんから「なんか、嫌味ババアの嫌味ババアたる所以を見せつけられたね。美香ちゃん、大丈夫?」と返事が届いた。
あたしは、「大丈夫だよん、ずっと右から左に聞き流してたから」と返信した。
その後、サナちゃんから当たり障りのないLINEスタンプが送られてきて、やりとりは終わった。

大学のサークルの友達、そして彼氏や店長をはじめ、いろんな人たちからのLINEメッセージが山のように溜まっていたので、それに対応していく。スマホのフリック入力専用マシンと化したあたしの右手の親指が、考えるよりも先に高速でメッセージを打ち込んでいく。後回しにしていた12時間以上も前の母親からのLINEに返事を打ち終えたところで、またサナちゃんのことを考える。この一週間、サナちゃんのことがずっと頭に引っかかっている。


一週間前。
店長との不倫現場を、サナちゃんに見られてしまった。正確には、現場そのものを見られたわけではないのだが、忘れ物を取りに来た彼女にあたしたちの行為中の声を外から聞かれてしまったようで、いずれにしても、秘密ごとがバレた。サナちゃんはそのことについて何も言ってこなかったが、あの日の夜サナちゃんと会ったときに、控室にあたしと店長がいたことを知ってたみたいだったし、彼女の顔には大泣きした跡がくっきり残っていたので、ああ、知られてしまったんだな、とあたしは悟った。

気まずさを晴らすためにも、あの晩、サナちゃんに男を紹介するという大義名分で、サナちゃんをあたしの大学のサークルの飲み会に連れて行ったけど、紹介したかった男とは話が弾まず、サナちゃんは終始つまらなそうにしていた。いつものサナちゃんならもう少しうまく立ち回ってくれるような気がしたけど、あの日はダメだったみたい。あたしは、自分の読みの甘さを呪った。

飲み会のあと、サナちゃんは「楽しかった。また誘ってね」とあたしに言ったが、顔が引きつっていて、どう見ても無理していた。あれ以降、サナちゃんとはバイトのシフトが重ならないので、会って話すことはできてないし、LINEのやりとりもどこか素っ気ない。


あたしとサナちゃんの関係は、不思議なものだ。性格も価値観も全然違うのに、バイト先の「バーガーキッチン」で誰よりも仲良くしている。

サナちゃんは、あたしの友達の中で、一番地味で、一番ネガティブ思考な人間だ。サナちゃんは、あたしとは正反対の人間。それでもあたしは、サナちゃんを気に入っている。というか、気になって仕方がないのだ。

サナちゃんは、あたしの姉にすごく似ている。
私より9個も歳が上の姉は、おとなしくて、気が弱かった。本当は人一倍頑固なくせに、自分を押し殺して徹底的に相手に合わせる人間だった。女子校上がりのせいで男の耐性がないのか、大学に進んでからも、男子学生との浮いた話の一つもなさそうだった。
姉の話を語るとき、過去形になってしまうのは、姉はもうこの世にいないからだ。

あたしは、姉と正反対の性格だった。あたしは小学生の頃から、いつもクラスの中心にいて、男子にモテて、運動神経も良かった。成績はそこまでいい方ではなかったけど、口は達者だったので、口喧嘩では負けなかった。

あたしは姉と仲が良くなかった。姉はあたしのことを羨ましく、そして疎ましく思っているようで、あたしとしても接しづらかった。あたしからすれば、姉はみじめな女子大生だった。こんな19歳になるまいと、当時10歳だったあたしは姉を反面教師にしていた。

そんな姉だったが、20歳の誕生日を迎える前に死んだ。交通事故だった。
あたしはその悲しみから立ち直るまでに何年もかかった。良い妹でいられなかったことを、あたしは何年も悔やみ続けた。姉はあの世から、あたしを呪っていることだろう。


サナちゃんに初めて会ったとき、姉の生き写しかと思うくらい似ていて、本当に驚いた。なぜだかわからないけど、この子を守ってやらねば、という気持ちが湧いた。直感的に、この子を幸せな女にしたい、と思った。

あたしからサナちゃんに近づくと、サナちゃんは嬉しそうにしていた。サナちゃんは、明らかにあたしのことを羨望の眼差しで見ていた。

姉の話は、サナちゃんにはしたことがない。というか、できるわけがない。サナちゃんの立場になって考えてみれば、死んだ姉に似てると言われたとて、ネクラな感じが似てるわけだから、言われて嬉しいはずがない。

あたしの本音をさらけ出したら、誰かを傷つけるのはわかってる。だからあたしは、胸の奥のそのまた奥にある本心は、サナちゃんにも誰にも言わない。サナちゃんと仲良しな理由は、表向き、バーガーキッチンの中で歳が一番近いから、ということにしている。


今回のことは、あたしたちの不思議な友情を終わらすには十分過ぎる出来事だったと思う。もし不倫相手が店長じゃなかったら、あたしはうまくこの難局を切り抜けられたかもしれない。でも、相手が店長だから、今回の件はまずいのだ。

サナちゃんが店長に惚れているのは明らかだった。あたしと店長の関係は数ヶ月前から始まっていたが、サナちゃんの淡い夢を打ち砕くようなものなので、サナちゃんには決して言えなかった。

でも、サナちゃんのために店長との不倫をやめるつもりはさらさらなかった。そもそも店長との関係は、理屈じゃないのだ。いくらサナちゃんが気にかかるからといって、あたしの店長への思いは止められない。これはまた、別の問題なのだ。どちらか一方のために、どちらか一方を諦めるなんて、そんな決断はしたくない。それは、あたしの流儀に反する。だからあたしは、店長との関係を断ち切るつもりもないし、彼氏と別れるつもりもないし、サナちゃんの幸せを願うことをやめるつもりもない。

あたしは自分がズルい女だと知りながら、開き直っているのだ。でも、この先どうしたらいいかは、あたしも見当がつかなかった。全てを手に入れることはできないってことぐらい、あたしも頭ではわかっている。


電車に揺られながら、あたしは、まとまらない考えをどう整理したらいいかわからないまま、ひたすらTwitterのタイムラインを眺めていた。

すると、サナちゃんから一通のLINEメッセージが届いた。

「すごく残念なんだけど、私、バイトやめるね。これから就活で忙しくなるし、今みたいなペースではバイト入れなそうだから」

あたしは思わずスマホを落としそうになった。続けざまに、もう一通届いた。

「バイトで会わなくなっても、ときどき一緒に遊びに行こうね」

嘘だ。
就活が理由でバイトをやめるというのはきっと嘘だし、バイトをやめても一緒に遊びに行こうというのも嘘だ。サナちゃんはもう二度とあたしに会いたくないのだと、あたしと絶交したいのだと、あたしは悟った。

あたしは、「え?なんで?いきなりどうして?」と返事を打ちかけて、消した。サナちゃんがこういう状態になることに心当たりがあるのに、こんな返事は白々し過ぎると思ったからだ。

あたしは「ねえ、サナちゃんの本心を知りたい。腹割って話さない?」と書いた。が、これも消した。あたしの方からサナちゃんに対して「腹割って話そう」という言葉を投げかけるのは、あまりにも傲慢すぎる気がした。そもそも、隠し事があるのは、あたしの方なのだ。

どうしたら状況を好転させられるのだろうと考えたあげく、あたしは「あとで電話していい?ちょっと話そー!」と送った。

それから30分以上、サナちゃんからは返事がなかった。既読にすらならなかった。あたしは、友達を失ったんだなと思った。そもそも、友達といえる間柄だったのだろうかとさえ思った。

ほとほと、自分が嫌になる。あたしはみんなに好かれているつもりでいたが、本当のあたしを好きな人なんて、きっといない。

家に着く頃、スマホが鳴った。サナちゃんからのLINEだった。

「今、美香ちゃんの家の近くにいるんだけど、ちょっと寄ってもいい?しばらく会えないかもしれないし、直接話せたらと思って」ときた。

あたしは、2秒後には「もち!」と答えた。

サナちゃんを待っている間、「しばらく会えないかもしれない」という言葉が引っかかっていた。深い意味はないかもしれないが、あたしは、サナちゃんに刺されるのではないか、あるいはサナちゃんが死ぬのではないか、そんなよからぬ想像をしてしまった。サナちゃんには姉が乗り移っていて、あたしに直接制裁を与えにきたのではないかというオカルト的なことまで本気で考えた。

サナちゃんのことは、アパートの前で待った。落ち着かなくて、家の中に入ることができなかった。

サナちゃんの姿を確認したとき、あたしは思わず、走っていって、泣きながら抱きついていた。この子を失ってはいけない、とにかくそう思っていた。サナちゃんは数秒固まっていたが、少しすると、あたしの抱擁を受け入れたように感じた。心臓の鼓動がどんどん速くなっていくのを感じるけれど、それがサナちゃんのものなのか自分のものなのか、わからなかった。

「どうしたの、美香ちゃん」
「サナちゃん、ごめん。あたし、間違ってた。サナちゃんに謝りたくて」
「美香ちゃん、いいの。わかってる。何が言いたいかは。実は私も言いたいことがあってね」
「え、なに?」

ドキッとした。今日のサナちゃんは、いつもと違う気がした。あたしが腕をほどくと、サナちゃんは答えた。

「えっとね。美香ちゃんがいてくれたおかげで私は救われたけど、このままずっと美香ちゃんと一緒にいたら、甘えっぱなしで、私ダメになっちゃう気がするんだ」
どう反応していいかわからなかったけど、あたしは頷いた。サナちゃんが続ける。

「だから、就活が終わるまでは、バイトもやめて、そっちに集中して、就活が終わったらまた2人で遊びに行きたいなって」
「ああ、そういうこと?そしたら、次はいつ頃会えるんだろう?」
「半年後ぐらいかな」
「そっか」

一度距離を置いたあとに、本当にまた会えるのかどうかはわからない。でもあたしは、今ここでサナちゃんがあたしと向き合ってくれていることが純粋に嬉しかった。

「あたし、応援するよ!就活も、将来も、サナちゃんはきっとうまくいく。あたしはいっつも、サナちゃんに幸せになってほしいって思ってる。ほんとだよ」
「美香ちゃん、ありがとう」

サナちゃんの目に涙が浮かんでいるのが見えた。
そうしてサナちゃんは、今日はもう遅いから帰るね、また連絡するね、と言って、その場を立ち去ろうとした。あたしは、店長とのことや姉のことも含めて、あたしの本音をサナちゃんに打ち明けるつもりでいたが、それをここで話すのが違う気がして、そのまま胸の中に留めておくことにした。あたしたちは、今日のところは別れるけれど、半年後にはきっとまた会えるのだ。

一度帰ろうとしたサナちゃんが、振り返って言った。
「そういえば、村本くんのことなんだけど」

「村本?」
「えっと、美香ちゃんが先週紹介してくれた、男の子いたじゃない?」
「うんうん、あの村本。村本がどうしたの?」
「クリスマス、デート行くことになった」
「ええ!?マジ!?」
「うん、マジ」
「ちょっと待って待って待って。マジで?」
「うん、マジだってば」
「サナちゃん、村本と連絡先なんて交換してたっけ?」
「一応してた。あのあと村本くんが誘ってくれたから、行ってみようと思って。いつもだったら、このデートも美香ちゃんに全部相談するところだけど、今回は何も考えずに、ありのままの私で行ってみようかなって。うまくいったら報告するね」
「うんうん。絶対報告してよ!」
「美香ちゃんの方からは、村本くんには何も言わないでおいて。彼、こっそり行きたそうにしてるから」
「わかった。あたしからは村本にも何も言わずに、あたしはひとり黙って、このデートがうまくいくことをお祈りしておく」
「うん。美香ちゃん、本当にいろいろありがとう」

そうして、サナちゃんは立ち去って行った。
その後ろ姿にはもう、姉の姿は重ならなかった。


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