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プロになれるかもと儚い夢を見た(サッカー人生振り返り中編)

前回の続き。中学編の始まりです。

いざサッカー部へ

12歳になった僕は、地元横浜市立のカナリヤ中学校、通称カナ中(仮名)に入学し、サッカー部に入部した。

小学校時代のチームメイトの中には、部活ではなく横浜や横須賀にあるクラブチームに進む者もいたが、大多数は僕と同じように部活を選んだ。

カナ中は決して強豪校ではなかったが、かといって弱小校というわけでもなく、何人か上手い人がいる、そこそこのチームだった。

ちなみに、地元の強豪校といえば、神奈川が誇る文武両道の中高一貫校、私立「桐蔭学園」だった。


怪我との闘い

カナ中サッカー部に入部したとき、僕は怪我人だった。
オスグッドという膝の怪我の治療には、当初の想像以上の時間を要した。

行きつけの接骨院に通っているだけでは良くなる気配がなかったので、いろんな病院に足を運び、いろんな治療法を試した。
針や電気、お灸の治療までやった。

怪我で戦線離脱していても、サッカー部の練習や試合には顔を出さないといけないのが億劫だった。
日本の部活は、出席することが美徳とされる。
プレーできない人間も、常にみんなと行動を共にしなければいけなかった。

僕はそれが嫌だった。
みんなと一緒にいても、ただ惨めな気持ちになるだけなのだ。

僕は、先輩達からも同級生からも、「ずっと怪我してる奴」と馬鹿にされているように感じていた。
「仮病だろ」とからかわれることもあった。

人というのは不思議なもので、怪我をした人間に対して、最初は優しく気にかけるのだが、療養期間が長引いてくると、次第に距離を置いたり鬱陶しがったりするようになる。

あのときの僕は、誰も味方なんていない気がしていた。


「一生許さん奴リスト」第一号

徐々にリハビリを始めるようになった頃、ひとつ許せない出来事があった。

夕方の部活の時間、サッカー部の部員がグラウンドで練習する傍らで、僕は校舎の周りをゆっくりジョギングしていた。

体育教師が僕を見つけると、僕のシャツを掴み、「お前、体育の授業を見学してんのに、ほんとは走れんのか」と怒声を浴びせてきた。

僕は怯えながら、「これはリハビリで…。運動前と後にストレッチに30分かけることを条件に、軽めのジョギングなら始めて良いって医者に言われてるんです」と答えた。

その体育教師は「だったら体育の前にも30分ストレッチしてから授業参加しろよ。ズル休みしてんじゃねえよ!」と睨みを効かせた。

僕は、なんでわかってもらえないんだろうと悲しくなった。
「そんな、授業の前に、一人だけ30分もストレッチするなんて無理です」と答えたが、「は?知らねえよ」と一蹴された。

気付いたら、僕の両目からは涙が溢れていた。
当時の僕は、怒る大人に対抗する術を知らなかった。

このときの体育教師は、僕の中で、一生許さん奴リストに加えられた。
ちなみに、これがリスト第一号であり、以後このリストは滅多に更新されない。


反撃の狼煙

中学1年の秋を迎える頃、ようやく僕もプレーできるようになった。

膝の故障中、嫌な思いを沢山したが、その暗い日々とはもうおさらばだ。
やっと膝が治ったのだ。

その頃にはもう、二個上の中3の先輩たちは夏の大会で敗れ、サッカー部を引退していた。
二個上と一度もプレーできなかったことによる寂しさはあったが、それよりも、半年以上ぶりにプレーできる喜びの方が圧倒的に勝っていた。

復帰してからの僕は、絶好調だった。

怪我していた期間、他の人たちのプレーを見ていて「もっとこういうふうにプレーしたらいいのに」と思っていたのだが、そういう理想のプレーを体現できている感覚だった。

復帰してすぐの紅白戦のときに、同級生の中で当時一番活躍していた選手をフェイントでかわしてゴールを決めたときの嬉しさは、未だに忘れられない。

復帰してから、一個上の学年のチームで左サイドハーフとして試合に出始めるまで、そう時間はかからなかった。


桐蔭学園の壁

カナ中の僕の一個上の先輩の代は、素行の悪い人間が多く、人相だけ見れば漫画『ルーキーズ』のサッカー版のようなチームだった。

ワルばかりで練習を真面目にやらない集団だったが、守備、中盤、前線にそれぞれエースがいて、試合でハマったときは強かった。

横浜の中体連の大会で、カナ中はどんどん勝ち進み、優勝まであと一歩のところまで迫ったことがあった。

破竹の勢いで強豪校をなぎ倒すカナ中の行く手を阻んだのは、桐蔭学園だった。

ノリにノっていたカナ中だったが、桐蔭には5ー1とボロ負けした。
この試合、僕も1年生としてフル出場したが、桐蔭の前では何もさせてもらえなかった。

桐蔭に負けたのは、個の力の差もあっただろうが、それ以上に、組織力の差が大きかったと思う。

カナ中には、組織としての戦術がなかった。
カナ中の監督を務める顧問のS先生が、サッカーに興味がなく、放任主義だったのだ。

あのときのカナ中は、練習も試合も、実質監督抜きで、自分達で話しながらやっていたようなチームだった。
むしろ、よくそれで大会を勝ち進むことができていたと思う。

顧問のS先生は、僕らが優勝候補の一角を破ったときですら、歓喜の輪に加わることなく、「人間ってすごいねぇ」とまるで他人事のように呟く人だった。


束の間の栄光

中学2年生になると、僕はカナ中では不動のレギュラーとなり、中体連の選抜チームにも選ばれ始めた。

各中学から数名ずつ推薦された人たちがセレクションに参加し、そこでの出来で、選抜選手が決められる。

僕はセレクションにめっぽう強かったようで、まず区選抜に選ばれ、次のセレクションでは市選抜に選ばれ、そのまた次のセレクションでは神奈川県選抜にも選ばれた。

過去にカナ中から出たのは市選抜選手までだったようで、県選抜まで行けたのは快挙だったらしい。

県選抜の一員として、横浜Fマリノスや川崎フロンターレのジュニアユースと試合をすることもあった。
マリノスやフロンターレにいるのは、プロ予備軍のような人たちである。

レベルの高い人たちに揉まれる中で、あのときだけは、ひょっとしたら僕はこのままプロのサッカー選手になれるんじゃないかと夢を見た。

当時、バルセロナのロナウジーニョが、僕のヒーローだった。
大観衆のスタジアムでロナウジーニョのようなゴールを決める自分を想像した。


最後の夏

中学3年生になり、僕はサッカー部の部長になった。

そのとき県選抜だった僕が一番欲していたのは、個人での成功よりも、チームでの成功だった。

チームで練習を重ね、最後の大会に臨んだ。

これが、まさかの結果に終わった。

僕らは、トーナメント一回戦で、弱小校相手に敗れたのだ。

無名のチームに、最後まで守り抜かれた。
引き分けのまま延長戦にもつれ込むと、最後はPK戦で負けた。

これが僕の中学の引退試合になった。

初戦は絶対に勝てると思っていた。
油断して、負けた。

チームを勝たせることができず、自分の無力さを思い知らされ、僕はしばらく立ち直れなかった。

後から考えてみれば、そもそも順当に大会を勝ち進めると思っていたのが、あまりにも傲慢だった。

カナ中は、実質監督のいない、無策のチームなのだ。
相手に対策されて、こちらの良さを徹底的に消されたら、もう太刀打ちできない。

勝負に挑む組織として、あまりに脆すぎるチームだった。


これが、僕のサッカー中学編。

怪我と闘って、選抜に選ばれて、最後はチームを勝たせられずに終わった。

中学サッカー部の入部と引退は、どちらも苦い記憶だ。

こうして僕は、高校生になる。



つづく

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