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タコヘッドと呼ばれた少年(サッカー人生振り返り前編)


前回の記事の通り、サッカー人生を振り返っていく。
ボールを追いかけた男の半生、読んでいってくれたら嬉しい。


タコヘッドと呼ばれた少年

小学校に入学して間もない頃、兄や周りの友達がサッカーをやっていたので、自然な成り行きで僕もサッカーを始めた。

小学校低学年の頃、僕が所属していたサッカー少年団・ムラサキSC(仮名)は、横浜市でダントツの強さを誇っていた。市大会ではほぼ毎年優勝していたのだ。

僕はそのムラサキSCで、ミッドフィルダーながら、フォワードよりも点を獲っていた。
利き足は右足だが、左足でも、そしてヘディングでも沢山ゴールを奪っていた。

当時のコーチ、Kさんという40代のおっちゃんからつけられたあだ名は「タコヘッド」。
サイドからクロスが上がると、タコのようにニュルニュルっと頭を出して、ボールを額に当ててゴールを決めるから、タコヘッド。

変な名前だが、僕はKコーチがくれたその異名を気に入っていた。
僕がヘディングで点を獲るたびに、Kコーチは両手を上げて喜んだ。

あの頃は、とにかくサッカーが楽しくて仕方なかった。
チームの練習以外にも、家の前の道路や公園でもよくボールに触っていた。
気がつけば、リフティング(ボールを地面に落とさずタッチし続ける遊び)も1000回以上できるようになっていた。


マリノスの誘惑

振り返ってみると、あれが大きな分岐点だった。

小学校高学年に上がる頃、ムラサキSCから横浜Fマリノスに数名移っていった。
横浜Fマリノスは、言わずと知れたJリーグのクラブチームで、当時トップチームには中村俊輔がエースとして君臨していた。

プロ選手たちが所属するトップチームの下には、下部組織という、いわゆる世代別のカテゴリーが連なっており、18歳以下は「ユース」、15歳以下は「ジュニアユース」、12歳以下は「プライマリー」と呼ばれる。
このマリノスのプライマリーカテゴリーに、うちのチームから数人が移籍したような形だった。

マリノスは、地元のサッカーチームとは違い、セレクションという名の入団テストで受かった人間しか入れない。
僕は自分の意志で、マリノスのセレクションを受けなかった。
「青砥もマリノスに行くべきだ」と言ってくれる人も周囲にいたが、僕はムラサキSCに留まった。

マリノスに行くなんて、僕の中ではあり得ない選択肢だった。
当時の僕は、マリノスを悪の権化のように思っていたところがあった。
僕にとってマリノスとは、上手い人たちを引き抜いていく血も涙もない組織だった。
そんなチームに喜んで行ける人間は、全員嫌な奴らだと思っていた。

僕は、サッカーが好きだったが、「友達とサッカーをする」ことが好きだった。
小学校のクラスでも毎日顔を合わせるような友達と、ムラサキSCでも一緒にサッカーをやって、それで週末の試合を迎える日々が楽しかった。

マリノスを選ぶなんて、そんな地元の友達に対する裏切りのような行為はしたくなかったし、何よりムラサキSCは強かったので、自分たちのチームで、悪の組織マリノスを倒してやればいいんだな、と思っていた。

でもそれは、甘すぎる考えだった。


「下手になったな」と言われて

小学校4年生に上がると、マリノスがあらゆる大会で優勝するようになっていた。

かつて市大会優勝の常連チームだったムラサキSCは、主力数名がマリノスに引き抜かれた後、マリノスに対抗するどころか、他のチームにもどんどん負けるようになっていった。

僕自身も、全く活躍できずにいた。
あの頃の僕は、勝てなくなったチームに、そして不甲斐ない自分に腹が立ち、ふてくされていた。

かつてのコーチだったKさんはその頃もうコーチをやめていたのだが、ある日Kさんがフラッと練習を見にやってきたことがあって、Kさんは僕を見て「下手になったな」とボソッと言った。

僕はその言葉を未だに忘れることができない。
うまくプレーできていない自覚があっただけに、よりショックだった。

Kコーチは期待を込めてそう言ってくれたのかもしれないが、僕は状況を良くする術を知らなかった。
何が楽しくてサッカーをしているのか、僕はわからなくなっていた。

振り返って、こう思う。
自分はきっと、学校の友達と仲良しサッカーをすることではなくて、サッカーで試合に勝つことを一番楽しいと感じていたのだと。
勝ち続けることを目指すなら、あのときマリノスに行く選択肢を考えてもよかったはずだと。


強豪の再建

小学5年生になると、転機が訪れる。
コーチがUさんという20代の若いお兄さんに変わり、ムラサキSCは次第に息を吹き返し始めた。

Uコーチは、サッカーの楽しさを教えてくれた。
練習メニューひとつとっても、何回パスを回したら勝ちとか、股抜きされたら罰ゲームとか、面白いルールが沢山あって、皆生き生きとプレーし始めた。

楽しさだけでなく、規律も叩き込まれた。
Uコーチは「何かあったら連帯責任」といつも言っており、例えば、チームメイト同士でくだらない喧嘩があったりすると、喧嘩の当事者だけでなく、チーム全員にコートの周りを何周も走らせた。

そして、戦術面でも大きく変わったことがあった。
Uコーチは、守備を徹底的に強化したのだ。
4−3や3−2のような撃ち合いのスコアで競り勝つチームではなく、1−0で安定して勝てるチームを目指すようになった。

僕は元々攻撃的選手だったのだが、守備要員にコンバートされた。
チームの守備は、どんどん洗練されていった。
攻撃陣の選手たちは「試合で相手から点を取るよりも、練習のときにうちの守備陣からゴールを取る方が難しい」と嘆くようになった。
僕は守備に面白さを見出すようになっていた。

ムラサキSCは改めて、強豪と称される集団になった。
だが、それでも結局、最強集団マリノスには敵わなかった。
小学校6年生のときの最期の県大会では、マリノスに敗れて、儚く散った。


怪我との戦いの始まり

小学校卒業を目前にし、ムラサキSCに別れを告げる頃、僕は左足の膝に怪我を負った。
「オスグッド」という名前の怪我で、そこから長い治療生活が始まることになる。

これが僕の、6〜12歳までのサッカーの思い出。
栄光を味わった小学校低学年時代、ひたすら沈んだ小学4年生時代、守備に目覚めた小学校高学年時代、紆余曲折を経て、最後には膝の怪我を抱えながら、僕は中学生になる。



つづく

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