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謙虚たれ

先日、Kくんという就活生から依頼があり、リモートOB訪問なるものを受けた。

そのOB訪問で、Kくんに「どういう新入社員と一緒に働きたいですか?」と訊かれた。

僕は「良い質問ですね」とか偉そうなことを言って考える時間を稼ぎつつ、少し間を置いてからこう答えた。

「素直で真面目で謙虚な人がいいです。それで冗談も通じる人なら、なお良いですね」

素直、真面目、謙虚、冗談通じる……咄嗟に考えたにしては、4つも並べてしまうとは、求めること多すぎだろ。
と自分に対して心の中でツッコミを入れつつ、でも、どれも欠けて欲しくないというのも本音だった。

一緒に働く若手には、できればこの4つ全部の要素が欲しい。
まあ、どれか削って3つにするならば、削るのは「冗談通じる」だと思う。
冗談は通じてほしいけど、仕事が回るなら、最悪通じなくてもいい。

というわけで、新入社員に求める三か条は、「素直」「真面目」「謙虚」でいこうと思う。異論は認める。

さて、これらを理想の新人像として発表させてもらったわけだが、その発想はどこから来てるのか。

まず、「素直」と「真面目」は、僕が日頃から感じている、一緒に働きたい人の基本条件といえる。
素直に人の話が聞ける、真面目に仕事に取り組む、そういう人であってほしい。

サラリーマン人生を過ごしていると、嘘をつく人や一生懸命やらない人が案外多いことに気付く。
だから、月並みな言葉かもしれないが、「正直にひたむきに頑張れる」というだけでポイントが高い。

一方、「謙虚」という言葉が咄嗟に出てきたのは、母の教えによるものだと思う。
母の言葉で印象に残っているものの代表格が、「謙虚たれ」だ。

昔、テレビに映る甲子園スターのSさんを見ながら、母がこんなことを言っていた。
「この人インタビュー受けるとき、相手選手の話をインタビュアーに振られても相手選手のことは絶対褒めないね。他の人の話が出ても毎回自分の話にもっていくし、謙虚さが足りないね」

いわれてみると、たしかにそんな気がした。
Sさんは、傲慢とまでは言わないが、自信満々で「恐れるものは何もなし」とでもいうようなふてぶてしい態度に見えた。

その甲子園スターのSさんは鳴り物入りで18歳でプロ入りしたが、その後は泣かず飛ばずの成績で、若くして球界から引退した。
Sさんが大成しなかったのは、「謙虚さが足りなかったから」なのだと僕は思っている。

学生時代に僕は母の前で、「今自分が頑張っているものが中々報われないことの辛さ」を嘆いたことがある。
そのとき母からは、「感謝も賞賛も求めるな」(実際の言い方はこんなキツくないけど)と言われた。

「感謝も賞賛も求めるな」なんて、この人はなんてことを言うんだ、とその瞬間は思った。
この苦労は報われないのか、感謝も賞賛も求めてはならないのか、と当時19歳の青砥少年は絶望した。

でも、その言葉のお陰で、今があると思う。
あのとき、人に感謝されなくても賞賛されなくても、前に進むことを選んだ。
その結果、得られたものがあった。

あの言葉は、あれから年月が経った今になって思い出すと、さらに重みを感じられる。

一般的に、人から感謝されるような、あるいは称賛されるような善行であったり努力であったりは、積まないよりも積んだほうが良いのは間違いない。
でも、行動の基準が「感謝や称賛」を頼りにしたものであると、軸がブレる。
「褒められるためにやる」だと「褒められないならやらない」になり、そうなると、やるべきことをやれないし、いつまで経っても成長できない。

だから、人からお礼を言われなくても褒められなくても、「謙虚に地道に生きていく」ということが、大事なことなのだと思う。

と、ここまで偉そうなことを書いたが、これを実践しながら生きることは中々難儀なことだ。
僕自身は「感謝されたいし褒められたい」という感情を持ち合わせているし、「謙虚たれよ」と自分に言い聞かせないとすぐに調子に乗るタイプ。

ロバートのコントに「邪念ゼロの会」というものがあり、それを参考にして邪念ゼロ化を実践してみたこともあるが、邪念をゼロにはできなかった。
謙虚がどうのこうのといっても、結局僕はチヤホヤされたいのだ。

それでも、である。
それでも、努めてできるだけ謙虚であろうとすることは、大事なことだと思う。

一旦話し始めると長〜い自慢話を披露してしまうOJISANなんかを見ると、「この人には謙虚さの欠片もないのかね」と辟易してしまう。
そういう人を見かけると、「こうなってはいけない」と反面教師にするようにしている。(それでも時々、「あ、今自分あの人みたいになってたな」ということがあり、その度に自己嫌悪に陥るわけだが。)

そんなわけで、「素直」、「真面目」、そして「謙虚」という言葉を学生Kくんに授けたわけだが、きっとKくんはもう忘れている頃だろう。

それを痛感する強烈な体験がなければ、あるいは、繰り返しそれを説く人が周りにいなければ、たいていの言葉は忘れるものだ。

僕は、母が日頃から謙虚でいることの大切さを謳う人でよかった。
今後も、「謙虚たれ」と言う言葉を胸に刻んで、生きていこうと思う。


おわり

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