17.体育教師への恨みはあと何年?
Xにて、学校体育へのルサンチマン(積年の恨み)が話題である。元は、市民スポーツを主催するNPOの人が、SNSやるまで学校の体育を恨んでいる人がいることに思い至ることが一度もなかったと驚愕していたことに、残酷なまでの体育への素直さを見て呆然とした方の投稿である。そこから、教員向け専門誌「体育科教育」に掲載されたヒャダイン(音楽クリエイター)の1ページほどに渡る「学校体育への恨み、運動ができなかった自分自身のトラウマ」についてのエッセイが同じくらいのインパクトで周知されることになった。私も不躾ではあったが、ヒャダインのエッセイを体育教師は読まないだろうとする意見に、「このようなエッセイを読む人はどちらかというとプロスポーツのコーチになるだろう」旨を付け足すなどした。申し訳ないが、私個人が見た範囲(Xでの恨み節や擁護など意見含む)では、十数年前~現在までの体育教師のエートスに対して、ヒャダインのエッセイを「少なくとも全文読んで、わが身を振り返ってみる」ことを求めるのは難しからんと思っている。これは個人史的偏見を含んでいることを認めるにやぶさかではない。だが、現にXにて学校の体育、特に体育教師への恨みがこれほどまでに共感を呼んでしまっている以上、これをただの個人の臆断だとか体育教師への偏見や差別であると片付けるには、かなりの臆断と偏見に塗れた剣が必要だ。ゴルディオスの結び目を解いたものこそアジアの覇者となる言い伝えに、アレクサンダー大王が剣にて一刀両断してその後アジアの覇者となった喩えのように、すっぱり断ち切れる剣は物事をシンプルにしてくれはするが、その断面の姿はシンプルすぎて問いの複雑さは伺えない。複雑な問いからより多くの豊かな言説を引き出すことについては、このような剣を持ち出すことを自制すべきである(と、私の師匠ズは言っている)。
「どうして、学校の体育はこれほどまでに多くの人間の恨みを生み出したのだろう?」という問いに対して、私たちはどのように向き合うべきだろうか。この問いに対して、単に「体育教師が単純だから」「体育はスポーツが出来る人に照準を当てており、下位層向けでないから」といった、割と単純な問いで答えることは出来る。だがこの答えから先は、「体育教師への教化的アプローチ」「体育のターゲット層の見直し」といったあまり現実変成力が見込めそうにない対策しか出てきそうにない。腐っても教師に教化的アプローチといった啓蒙はおそらく反発を招くだけであろう。体育のターゲット層の見直しをしたところで、ひどく単純な動作しか生徒に求めないつまらないものになるか、やはり下位層が発生せざるを得ないもののどちらかになってしまうだろう。
であるならば、このような時は問いの次数を上げることが良い(と、私の師匠ズは教えてくれている)。すなわち、「学校の体育は現在の体育教師、授業内容、目標設定を置くことで、どんなメリットを引き出しているか?」という欲望への照準である。そこで、文科省のHPに記載されている「体育の目的」のページについて引用をする。
いかがだろうか。この引用から見るに、次の項目に要約されそうだ。
体育の目的:すべての子どもたちが生涯にわたって運動やスポーツに親しむための素養と、健康・安全に生きていくための身体能力や知識を身に付けることを目指している。
必要な能力の習得:体育の授業を通じて、子どもたちに一定の身体能力、態度、知識、思考・判断を身に付けさせることが必要であり、これらの側面はどれも同等に重要である。
経験の重要性:体育は他の教科では得られない身体運動を通じた経験を提供し、これにより子どもたちが身体能力、態度、知識、思考・判断を確実に定着させることが重要である。
運動を通じて、健康安全(身体能力面)・態度や知識思考(精神能力面)を涵養するという趣旨で私は受け取った。皆様におかれても異存はないだろう。だが、ここで一つ、重大な点に気づかれる方がいるかもしれない。そう、引用文に「競争」という語はたった1語しかない。なんなら、上記引用のHPでは「競争」という語は、ページ内にたった1語だけ、”「競争,達成」に関する経験”という経験の例の一つとしてしか、記載がされていないのである。これは驚きなのではなかろうか。というのも、Xの恨み節は必ず競争/上下関係(身体能力、スポーツ成績)/マウントといった、競争のタームで領有されているものがほとんどであるにも関わらず、当の学校体育の目的/メリットに「競争」は主題的には語られていないのである。あんなにも体育が、競争やそれにともなう嘲笑、呆れ、惨めさといった恨みであふれているのにも関わらず、当の学校教育が掲げる目的では、競争は主題ではないと言う。この場合、文科省の掲げる題目と実際の現場が食い違っているか、我々が現実から乖離した集団的幻想を夢見ているかのどちらかしかない。そして、後者を採用するには(例えばヒャダインのエッセイが教育者向け雑誌に採用され投稿されたことを鑑みるに)厳しいと言わざるを得ない。よって前者こそが疑われてしかるべきである。つまり、文科省の考えは現時点で現場の体育教師にはあまり浸透していないというのが当為のものであると考えるべきだろう。
であるならば、次に問われるべきは「現場の体育教師たちは、文科省の題目に反して競争を主題とした教育を実施することで、どんなメリットを引き出そうとしているのか?」という、いささか捻じれた問いになる。わざわざ上司にあたる機関の掲げる題目ではなく、競争主題の教育を実施するのは、なぜなのだろうか?私が思う理由は以下のようなものである。「おのれの教育方法を今更変えられない、現にこれまで優秀な成績の子供たちを輩出してきたではないか。それを今更変えろと言われて世の中どうなっちまうんだ。ホイホイ変えて失敗したらどう責任取れというんだ」
あくまでも、私が「現場の体育教師が思うように」疑似的にエミュレートしたものではあるが、どうだろう十分にありえそうではなかろうか?というのも、教育というものは惰性が強い産業であるためだ。内田樹老師曰く、「教育、農業、医療、法」の4つは極めて惰性が高い産業であり、すぐさまにこれまでの方法をドラスティックに変革することに対して、強く抵抗する性質があるという。というのも、これらはあらゆる社会集団において欠くことが困難であり、今までのやり方を続けることで見込める中長期的利益を重視してきた産業であるからである。例えば、効果的だからといって農薬を大量散布する農業にすぐさま切り替えようとしても、おそらく反対する農業従事者が多いことには少しも違和感を覚えない。これまで飲まれてきた薬は来年から廃止して、新薬のみに切り替えますと言われて、はいそうですかと頷く医者はごく少数になるだろう。昨日までは赤信号で止まっていましたが、明日から青で止まって赤で発進してくださいという規制に変えることはとてもではないができない。
情報通信産業など経営環境がドラスティックに変化して、昨日まで儲けられたビジネスモデルが一夜にしてゴミになるような産業と比較すると、あまり変わらないことを当て込んで、そこから人々は利益を得ているのである。つまり、現場の体育教師が意識/無意識で望んでいるのは、「なるべく教育方法は変えずに、想定されやすい教育効果を得続けること」となる。それこそが、教育という惰性の強い産業に従事することを誓った人間に共通の「欲望」であるだろう。
私は序文に「ヒャダインのエッセイを、体育教師はあまり読まず、どちらかというとプロスポーツのコーチの方が読むだろう」と言ったことも、学校教育の現場は変わりにくいことが宿命的であることを鑑みれば、間違いとは言えないはずだ。体育教師とプロスポーツのコーチではそもそも惰性という因子に違いがある。プロスポーツのコーチは、トップ競争をわずかにでも差をつけて勝たせるためにはどうするか?という問いこそが主題である。であるならば、「最新鋭の概念(誰にも真似されていない独自性という差別化)、最新鋭の設備(しばしば独特の器具など)、最新鋭のサポート(これも差別化要因)」などといった手段、他の選手を半歩でもわずかでも抜きんでるあらゆる可能性を考慮する必要がある。それができない人間は、数年で時代遅れになって脱落する。彼らに惰性という文字は職業選択の段階から許されていない。
だが、体育教師はそうではない。数万人規模で学校の体育教育に従事する者たちは、むしろ「あまりやることがころころ変わらない」ことを(明言されていないが)要求されて教師になっている。それに加えて、数十年来に渡り日本の学校教育に求められてきた児童生徒の「均質性」や「標準化」圧力を加味すると、やることを工夫して独自性や差異化を目指そうとすることは、そもそも馴染まないものである。だから、ヒャダインのエッセイを読まないことを、体育教師の個人的性質に帰すことはできない。現時点での彼らの立ち位置をなるべく客観的に記述するならば、「文科省の指針と外部からの要請が競争ではないものを照準するように変化した中、本来的に教師に求められる惰性との板挟みになっている過渡期的存在」と言うのが相応しいだろう。おそらく現場の体育教師の内、若い教師ほど競争ではなく体育の楽しさや運動能力、精神能力の向上に焦点を当てた教育を重視する者が多く、その一方で勤続15年を超えるベテランほど競争に思い入れのある教育を行っているのではないだろうか。ここから推測するに、あと20年ほどは競争の匂いが残る体育への恨みは出てしまうだろうが、その先は案外恨みに領される人間は体育教育からは生まれないのではないかと思われる。楽観的であることは承知の上で、私は割と未来はそう悪いものではないんじゃないかと考えている。
以上を踏まえてまとめよう。「どうして、学校の体育はこれほどまでに多くの人間の恨みを生み出したのだろう?」という問いに対して、私は以下のように答える。競争を重視した教育がかつて重視されており、最近まで惰性的に行われてきたため、競争を重視する体育教育にうまくキャッチアップできなかった人々がいた。だが、今は文科省や世間の目標が変化してきている。その過渡期にあたる今、惰性で競争を重視するベテラン教師と競争を重視しない若い教師が入り混じった状態となっている。その過渡期にいるからこそ、葛藤や対立が主題化して見えており、積年の恨みが集団的に表在化したのである(言葉による葛藤や対立がなければ、人々が潜在的に持つ恨みは中々表在化しない。シニフィエを欠いたシニフィアンは抑圧され症状として回帰こそすれ、意識的に語られることはないのである)。これから20年ほどしたら今の人々が持つような体育へのルサンチマンはゆっくり解消されていくだろう。私たちのトラウマが、未来には再演されないことを祈る。