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あなたのやり残したことは何ですか?【前編】

久々に夢を見ました。
夢の中での私は、高校3年生でした。
「試験」を受けていました。
目の前の問題は、何一つ分かりません。

「空欄で出すのは何だし、なんて書こうかな、、」

「0点でも卒業は決まっているんだし、
別に0点でも良いんだよね。」
しかし夢の中の私は、こう思うのでした。
「やっぱりもっと勉強すればよかったな。」

このような夢は、一年に一回くらいみます。
理由はわかっています。

私は大学受験をしなかったことを、いまだに後悔しているのです。
もう40年近くも前のことなのに。


母の兄への期待


私の実家は青森県の津軽地方という超がつく田舎です。
私には4歳上の兄がいます。
兄は小さなころからとても勉強ができました。
私の記憶する兄の通知表はほとんどが5でした。
体育だけ3だったかな(笑)

兄は、高校を越境入学しました。
車で1時間以上も離れた街の進学校でした。

実家のある地域から、その進学校への入学は初めてのことでした。
兄が合格した時のことはよく覚えています。

小さな田舎町です。
私は小学6年生でした。
何人もの先生が、私に言いました。
「aoさんのお兄さん、〇〇高校合格したんだってね?
おめでとう。

私は家に帰って
「私のことじゃないのに、何で私に言うの?」
と母に言ったのを憶えています。

兄は自宅を離れ下宿生活をしました。

私は両親に「勉強しなさい」と言われたことは一度もありません。
母は事あるごとに、兄のことを心配していました。
兄の通う高校の校風が自由なこともあり、
兄があまり勉強しないことをよく口説いていました。

「進研ゼミ(今のベネッセ)を高いお金を出して買ったのに、
全然やらない。」

母の期待は、一心に兄に集まっていたのでした。

ちなみに父は、何一つ教育にも生活にも無関心
というか、母に任せきり。
まるで一人暮らしのように気楽に暮らしている
(ように私には見えた)人でした。
母は愚痴を言う相手がいなかったのでしょう。
その聞き役は私だったのです。

兄が大学進学を迎える時期になりました。
母は、兄が県内唯一の国立大学に入るのを望みました。
しかし、兄は東京の大学を目指し、一年浪人して私立の大学に入学しました。


私は?


私も高校3年になり、進路を決める時期になりました。

当時よく母は、母の妹と電話をしていました。
母の妹は関東圏に住み、子供たち(私の従妹)は私と同年代でした。
私の2歳下の従妹はその時高校1年生でした。
美大を目指し、既に美大受験のための予備校に通っていました。
母は私に言いました。
「美大って、すんごい高いんだって。」

私はそれを聞いて
「うちにその選択肢は無いんだな。
と思いました。

兄の高校からの「下宿生活」、東京での「一浪」と「私大入学」。
裕福でない田舎の家庭にとって、大きな経済的負担だったでしょう。

そのしわ寄せは、私に来ました。
私もそれなりに勉強はできました。
私が
「大学は建築学科に行きたい。」
と言ったら、母は
「国立大学にストレートで入るなら、行ってもいいよ」
と言いました。

建築学科のある国立大学がどれくらいあるのか、
母はおそらく知らなかったと思います。

一方私は、
「建築をやるなら東京で働く。
東京で働くなら東京の大学。」
としか考えていませんでした。

大人になって、
「(実家から離れ)地方の国立大学の建築学科を卒業した」
という人の話を聞いて
「その手があったのか」
と思いました。
当時の私は、あまりにも無知でした。


女の子だからいいよね?


東京近郊を含めた建築学科のある国立大学の
受験必須科目を調べました。
私が高校の授業で選択していない科目が必須になっている大学が多かったです。
今なら塾など、不足を補う手立てはあるかもしれません。
当時、しかも田舎で、そんなことは考えすら及びませんでした。

残るは一校しかありませんでした。
当時の私の学力からすると、
「無理かも……」
というレベルの大学でした。
また、国立大学を受けるとなると、センター試験を受けなければいけません。
不得意な科目の勉強もしなければいけません。

私大なら美大系も含めて、レベルの高低も相当数あるのに。

40年も前、今のように、大学に行くのが当たり前ではありませんでした。
そして地域差。
田舎では、学校での勉強がすべてでした。
当時、塾など入試を支援してくれるものはありませんでした。
学校の先生も、一人一人の志望校の対策など、
今考えてもできるはずもありませんでした。
相談できる相手がいなかったのです。

ちょうど時代は「専門学校ブーム」でした。
その時の私は、完全に「ふてくされて」いました。
一心に、兄にばかり教育熱心だった母。

私大でも
「行かせてください」
と頼めば行かせてくれたのかも知れませんでした。
でも頭を下げるのが嫌だったのです。

「専門学校でいいや」
簡単に決めてしまったのでした。
母は
「女の子だからいいよね。」
と言いました。
ホッとした様子でした。

「(大学に)行かせられなくてごめん。」
そう言ってくれればいいのに。
悔しかったのを今でも覚えています。

次回に続く

「女の子だからいいよね。」
そう言われた私は、離婚して子供を養わなければいけませんでした。
一方、兄は結婚はしましたが、子供はいません。
皮肉なものです。

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