Photo by kawakami_yosh 【番外編】一人でも多くの人に読んでほしい話 54 ao 50代からのミライ 2024年7月24日 22:09 今日は、あるお話をそのまま紹介します。ORANGE RANGEの廣山 直人さんのFBの投稿です。ぜひ、一人でも多くの人に読んでもらいたいと思います。20240622 FB 廣山 直人先日僕のおばーが95歳で亡くなった週に一度マクドナルドを食べる元気なおばーでした(葬式の時も棺の中にマクドナルドのセットが入ってた笑)耳は聞こえなくなっていたけど、死ぬ直前まで元気だったそんなおばーはいつも平和を願っていた僕含めた孫たちにいつも戦争の話をしてくれたそして10数年前、自費出版で戦争体験記なるものを出したそれからというもの僕に会えば「あの本をインターネットしてね」と毎回コソコソっといってきた多分「SNSにアップしてね」と言いたかったのだと思う他に思いつく場がなかったのでこの場を借ります是非読んでみて下さい(実際の本から文字起こしをしたので誤字、脱字あると思いますがスルーして下さい)戦争体験記〜その時私は14歳でした〜屋良富美子1.平和な幼い頃私は昭和五年八月生まれで、現在七十七歳です。父 島袋秀英と、母 ウシの五番目の子として生を受けました。島袋の姓は戦後改姓され、現在は島田となっています。 私の家は十三人家族で大変賑やかでした。兄の秀夫と秀一、姉の敏と豊、妹の芳子、弟の浩、武夫、 行夫の九人兄弟姉妹と、秀夫兄さんの妻、初枝姉さんと、その息子政夫君、そして両親と一緒に生活 していました。短い期間ではありましたが、幼い頃の平和で楽しい思い出もたくさんあります。 正月になると蓄音機でレコードをかけ、その音楽を聞くために部落の人たちが集まっていたこと。 「真術ごっこ」というレコードは子供たちに人気でした。家族が販わっていた中で私がランプを頭で ひっかけてしまい、私と妹が火傷したこともありました。いつでも笑い声があり、温かい家庭でした。 小学校入学まではあまりに幼くて、うっすらとした記憶しかありませんが、小学校にあがってから は確かな記憶があります。昭和十二年四月に小学校へ入学しました。父は優しい人で、大変働き者でした。役所に勤めていたのですが、出勤前には五時頃から農作業を したり、家畜の草を刈ったりと働いていました。そして出勤の時間になると水浴びをし、着替えてか ら自転車で役所に行くのです。「ジンヤモウキーガーヤアランドー、タミーガールヤンドー」。これは父のよく言っていた言葉です。 お金は儲けるだけではなく少しは貯めなさい、と私たちに言い聞かせていました。これは私の教訓に なっています。 私が三年生の頃です。父が牛馬小屋の前の広場で「ミンバーラー」を作ろうとしていました。ミンバラーとは「ムチンプサー」とも言い、モチを蒸すために鍋底に敷く竹ヒゴで編んだ網のことです。 父はどう作ろうかと非常に悩んでいた様子でしたが、じっと見ている私に「作ってごらん」と竹ヒ ゴを渡されました。ミンバーラーは六角形に編まれていますので、一生懸命考えて六本の竹ヒゴを 使って六角形を作りました。最初ができればあとは簡単です。シンメーナービの大きさまで編んでミンバラーを作ってしまいました。 三年生の私が作ってしまったので驚いた様子でしたが、大変喜んでくれました。「えらい、えらい」と 褒めてくださったのを覚えています。私も全くの初体験でミンバーラー(竹細工)を編み上げてしまっ たので、内心びっくりしていました。 また、四年生の頃の四大節の日でした。四大節とは旧制度の祭日のことです。その日は講堂で式典記憶にある母の姿は、いつも汗を流して農作業や糸袖をしているところです。子沢山でしたので、 母は家事に育児にと追われ、片時の暇もない毎日だったと思います。母がじっと休んでいる姿は一度 も見たことがありませんでした。物心ついてからの私は、母の手伝いを好んでしていました。今でも手仕事は好きです。当時から興味があったのを母は見抜いていたと思います。私にはよく手伝いを言いつけていました。芭蕉布を織ったり、蚕を養って、その繭から絹糸を取ったりして反物にしていました。今では考えられないことかもしれませんが、家族の着物はそれらの反物を母や姉たちが機織りをして作っていま 糸ができたら母と一緒に嘉手納にある染屋にいきました。あの嘉手納までの道を、幾度も母と二人 で歩いたのを思い出します。 そうやって母の手伝いを好んでしていた私は、小学校低学年の頃からほんの少しですが、向学心を 持っていました。指や手先を使う仕事を学んでいきたいという希望があったのです。子供ながらも遊 んでいる時より、何か手作りしている時の方が楽しかったのを覚えています。 将来の目標や夢は、模様染めや機織りなどを身につけて和洋裁師や染物師になることでした。常に 手作りの技は大好きで母や姉たちが織機や糸つむぎ等をしている側で一生懸命見学して自分なりに習い覚えていました。いわゆる夜なべ、針仕事をお母様と一緒に好き好んでやりました。 しかし戦争のため、夢も希望も消えてしまいました。いよいよ第二次世界大戦が勃発したのです。 昭和十六年十二月八日と覚えています。五年生の頃でした。2.戦争が始まる一番上の兄は昭和十六年に入隊されました。二番目の兄は二歳下ですから、昭和十八年に入隊に なったと思います。お兄様たちが戦地に行き、残された家族は十一名となりました。 戦争が始まると、品物が自由に売買できなくなりました。配給制度になったのです。学校に行くと き、母から学校帰りに配給を取ってくるように言いつけられることがありました。そんなときは、役 所の父のところへ行き、配給用の切符を受け取ってから胡屋十字路にあった山下商店に配給の品をと りに行きました。私は父の職場に行くのが好きでした。働く父を見ているととても誇らしく思え、な んだかとても嬉しくなったからです。 あるとき、牧育指導のため県から行政官がやってきました。当時はこれを県視学と呼んでいました。 当時私は母が木綿の糸を染めて機織りして作ってくださった反物で、自分で作ったセーラー服を着けていました。すると視学にいらした方がしきりに私の背後からそのセーラー服地を不思議そうに触っ てくるのです。「これは何でできているのか」と聞かれたので、私は「手作りです」と答えました。 家に帰り母にそのことを話すと、大変心配されていました。なぜかというと当時は戦時中ですので、「非常時」と言い、服を作るのは贅沢とみなされて 禁止されていたようです。誇りに思うべき手作りを 否定されるような、殺伐とした時代だったわけです。いよいよ戦争の色も濃くなり、運動場も戦室も学 校の全てが日本兵の宿合となり、勉強はおろか毎日 毎日軍隊の手伝いを朝から夕方までさせられました。 高等科に上がってから授業を受けたのは僅かしか ありませんでした。今日は壊掘り、明日は飛行場作り。明けても暮れて もざるを持って登校し、中部一帯あちらこちらと 行き来しました。違い所は片道約十キロもある倉敷あたりに徒歩で往復しました。豪掘りの手伝いは土や石などの運搬作業で、指先にタコができました。勉気はせずにひたすら軍隊に従事でした。低学年の四、五年生までも昭和十九年より昭和二十年三 月の艦砲射撃のくる直前まで軍隊の手伝いをしていました。 十九年の何月頃に日本の軍隊が沖縄に入ってきたかは、はっきりとは覚えていませんが、もちろん。 私たちの学校の校舎にもたくさんの兵隊が入居していました。日本軍は民家や学校を宿舎として、駐屯していました。学校の運動場には北海道産の軍馬がたくさん来ていたのを覚えています。 私の住んでいる越来村の字山内という部落でも、大きい家屋は日本兵が強制的に入居していました。今も覚えています。私たちの家の母屋にも軍隊が駐屯していました。玉部隊、石常隊母は佐藤さんという日本兵をかわいがっていました。ときどきですが、何か甘いものを作ってあげ ていました。佐藤さんは長兄と同じ年齢でしたので、兵隊にいった兄たちを思いうかべ、我が子の面 影をみていたのでしょう。3.十・十空襲十・十空襲当日、私は早朝から干し草の準備をしていました。干し草は軍馬に与える餌です。干し草を束ねていると日本兵が家の門に上がって、双眼績で上空を眺めています。空高く飛び、五、 六センチにしか見えない何十機もの飛行機を見て「日の丸の殺行場だ。我が軍もよくやるものだ」といってました。兵隊同士会話し、演習だと喜んでいる様子でした。 見上げると遙か上空が真っ黒になるほどの飛行機が飛んでいます。しかしその後、那覇市への大空 襲が始まったのです。軍には連絡網があったのでしょう。敵の飛行機だと気付いて大騒動になってい ました。そのため、学校にも行かず、準備していた干し草もどうしたか覚えていません。お昼頃には 那覇から逃げてきた避難民の方々が、いっぱい山内まで来ていました。ヤンバルに行くということを 話していました。4.全島艦砲射擊昭和二十年三月二十日より沖縄県全島に艦砲射撃が始まりました。わが家も艦砲射撃を受けて、家 屋も家畜も全てめちゃくちゃに壊されてしまいました。大切にしていた蓄音機も時計も粉々になって しまいました。各々の家庭には自家壕を前々から準備してありましたので、そこでの生活が始まりま した。十日間くらいだったと思います。 私の家は裏山の竹藪の斜面、豚舎の真下に両親や義姉、二人の姉が頑丈な壕を造ってありました壕の入口の爆風よけも竹の根元がそのまま付いて、しっかりと造られていました。の壕の中は壁や天井なども綺麗にされて、家族十一人が座って住める避難場所になっていました壕の中での生活は不自由でした。 壕の真上は豚舎で、当時三、四頭の親豚を養っていました。父親は一人で豚を解体し、塩漬けにしました終戦となって一年か二年後に、その塩漬けを掘り出して、皆で頂いたのを覚えています。とても美味 しい塩漬けのお肉でした。昭和二十年の三月二十三日は卒業式の予定でした。しかし艦砲射撃が始まったために、卒業することもできず卒業証書もありません。三月二十四日だったと思います。私は山内部落の中心に立つ大木のガジュマルに登り、そこから母 校がもくもくと燃えているのを見ました。母校が焼け灰になっていく姿を、ただ何もできずに、見つめていました。悲しくて悔しくて声をあげて泣きました。あのときの心痛は消し去ることができま せん。三月三十一日、私たち家族は国頭に行くため、馬車に荷物を積んで家をでました。越来のハンジャー橋の方まで行きましたが、架かっているはずの橋が壊され北上できなくなってしまいました。日本軍 が米軍の侵攻を防ぐために破壊したのです。思えば日本軍のしたことは全て無駄なことでした。 山内部落に掘った壕もすでに各家庭自家壕を持っていたので、必要なかったですし、橋に至っては、 本当に迷惑なだけでした。あのとき北上していたら、私たち家族の運命は違うものになっていたはず です。 私たちはまた山内に引き返し、日本軍の掘った壕に入りました。そのときにはもう日は沈み、夜中になっていました。5.戦場を逃げまどういよいよ昭和二十年四月一日、嘉手納の砂辺海岸より米軍上陸となってしまいました。山内部落には、四月一日の夕方五時頃に入ってきたと思います。一人のおじさんが、現在の国体道路の辺りで米軍を見たとおっしゃっていました。敵は村はずれまで来ているとの通報でした。部落民は日本兵が掘った壕に七、八十名くらい避難していましたが、蟻の巣をつついたように壕の 中は混乱し、右往左往の状態でした。自分の荷物なのか何かも分かりませんが、手元にあるものを持って逃げようと必死です。家族はそれぞれ担当がありました。私は小学校一年の武夫の面倒を見る担当。妹は煎った麦を粉に して、黒糖と混ぜた「ユーヌク」という非常食の入った袋の担当でした。これは母が普段から備えて いた香ばしい非常食でした。 しかし、混乱した壕の中から妹が持って出たのは、人が食べた後のイモの皮の入った袋でした。こ れは壕から出て翌日に気付くのですが、それくらい混乱していたのです。 壕から外に出ると、山内部落の一本線の中道では、道沿いに建てられた両側の家屋が焼け落ちると ころでした。米軍は上陸前は艦砲射撃で散々建物を破壊し、上陸してからは焼け落としたのです。炎 のトンネルをくぐり障害物を払いのけながら、やっと北中城の喜舎場までたどり着きました。家族全 員の無事を確認して、そのまま中城城趾に進行しました。 幸いにも壕が見付かり、しばらくその壕に居ましたが、この壕の入口には隠しがありませんでした。 そのため眼下の海に軍艦が止まっているのが見えます。そこから砲弾はビュービューと飛んでくるし、 敵がどんどん迫ってくるのが見えるので、また壕を出て歩き出しました。 一晩中険しい道なき山道坂道を歩き通しで、やっと道らしき道に出ることができました。土地名ははっきり知りませんでしたが、多分久場崎あたりではなかったでしょうか。夜通し南部の方向に前進し、明け方になって西原の棚原部落に着きました。父が土地名を教えて下 さいましたので、棚原部落は私の脳裏に深く刻まれて永遠に記憶しています。日中は部落の中心に あった山中で木陰に隠れて避難しました。そこでも山の中に人間がひそんでいるのに気付かれ、敵機 より機銃を受けたくさんの人が亡くなりました。私の家族は幸いにして皆無事でした。 棚原部落の山中にいたのは、四月の二日でした。日中は木陰や家屋の焼け跡の片隅に隠れて、日が 暮れて暗くなると安全地を求めて歩き出しました。暗い夜道を歩いているとき、照明弾が何十発も上 がり、その明かりが道を照らし、道案内となり助かることもありました。 首里に入ると道が焼けるように熱く、歩きながらも地面の熱が伝わってきました。それくらい集中 的に攻撃されていたのです。首里城付近まで行った所で石の壕に入っているのを気付かれ、また攻撃 を受けました。火薬の匂いが鼻をつき、生きた心地がしませんでした。幸いにして家族全員無事でしたので、夜中、急いでそこを出て安全地を求めて南へ南へと前進するのです明け方になって、昼間休む隠れ家を見つけた所は南風原の小さい橋の下でした。父や母、大人たち は「アンチョーミー」と言っていました。大雨の時に水が流れる所だったそうです。 その橋の近くで玉城さんという諸見里部落のおじさんに出会いました。おじさんは家族と離れて一 人でいました。そして橋の下にいるとき、近くに爆弾が落下し、破片が飛んできて姉の髪留めに当たっめはね返って玉城さんに当たり、亡くなってしまいました。その橋は高さも低く、幅も狭くて、足を曲げたまま身動きもできず苦しい一日でした。夜になりそ こを出て南へ南へと歩き続け、島尻の東風平後原部落に四月四日にたどり着きました。6.後原部落での二カ月東風原は敵の襲撃も少なく、長期に暮らせる場所だと感じました。そこでは約二カ月間いました。米軍は首里城を攻め落とすのに時間がかっており、長期滞在となったのです。その当時、 父親は五十歳でしたが役職のため防衛隊に招集されなかったのが幸いでした。父親の引率力がなかっ たら家族ちりぢりになり、どうなっていたことでしょう。南風原で生活していたのは大きな家屋で、空き屋になっていた所です。これは後で知ったのです が、そこの家族は山原に避難したとのことでした。その空き屋は茅葺きの屋根で射撃の跡形もない大家で、屋敷の後ろと左右には高い山があり、三方を囲まれた安全な場所にありまし 人が長期に暮らせました。そこの屋敷の上座の左手の山に、避難するための自家壕も掘りました。そこの部落の組合長さんと その家族は、どこにも避難されずに自宅に居残っておられました。父は色々と組合長さんに食糧の交 渉などもしておられました。 組合長さんよりお味噌や黒糖の差し入れがあったのを覚えています。お芋は畑ごと買い取ったのかどうか分かりませんが、お姉さんたちが夕方になると砲弾の合間をみて他の家族と共に芋掘り等もし ていました。その部落の村外れに友軍のいる家がありました。この頃になると、 日本兵はどんどん怖くなっており、山内の家にいた日本兵とは全く違う軍隊のようでした。もちろん中には優しい人もおり、私に文化刺繍の道具を持ってきてくれた人もいました。しかし戦禍が激しくなるにつれて、日本兵は人間とは思えないほど恐ろしくなっていきました。日本兵が私たちに水汲みを命じました。断るわけにはいきません。軍隊には絶対服従ですので、私 と豊姉さんとが水汲みの手伝いにでかけました。当時私は十四歳で、姉が十六歳です。夕方になると、日本兵の目つきがおかしくなってきました。どうやら私たちに乱暴しようと思って いたようです。私は気付かなかったのですが、姉が察して、山を駆け登って逃げました。どうやって 家にたどり着いたか覚えていないほど、一目散に逃げてきました。あの時の豊姉さんの勘の鋭さに感 謝しています。そのような怖いことも経験しながらも、毎日毎日、二十五名分の食糧を確保するために一生懸命で した。ある日の昼間、一番上の敏姉さんと水汲みに行きました。畑の真ん中にあった円形のセメント 井戸で、水を汲んでいる最中、いきなり敵機の機銃を受け、井戸の側にかくれ 難を逃れました。それからしばらくして井戸を覗いてみたら円形のセメントもバケツも滅茶苦茶になっていました本当に命を落とすことなく幸達に更まれていだと思いますある夜中、飢えをしのぐために命懸けで、敏姉さんと豊姉さんが他の家族と一緒に、食達を探しに 出ました。すると運良く日本軍の食糧倉庫の焼け跡を発見し、焼け米を持って帰ってきました。焼け 米でも米に出会えたことは大変嬉しい出来事でした。黒こげになったお米の中から茶褐色の米を選び 炊いたお米は、煙の匂いがしましたが大変ご馳走でした。ご飯炊きはとても苦労しました。煙が外に漏れないように稲穂で編んだ三畳くらいの敷物で三、四 人は火や煙の漏れを防ぐ役目を受け持って、お互いに助け合って生活していました。約二カ月間は米軍に気付かれないように、規則をよく守って一致団結して暮らしていまし た。だからこそ長期滞在することができたのです。7.地獄の光景いよいよ米軍は首里城を乗り越えてきて、六月の初め頃から本格的な住民を巻き込んでいきました。この苦しい戦いは二十日間くらい続きました。私たちは生き延びるために南へ南へと進 みました。 家屋も樹木も全部焼き払われて焼け野が原状態の中、地獄を見ました。昼も夜も東西南北走り行く 人、人、人。道ばたで寝転んでいる人。足のない人。手のない 人、頭が半分になっている人。口や耳がない人。死んではないが歩けない人。生きているけれど体中 にウジ虫がいっぱい湧いている人。歩いている私たちの足を引っ張り助けてくれと叫ぶ人。このよう な悲惨な光景はどうやっても書き表せません。生きている私たちも食べ物がなく、歩くのもやっとでした。しかし母は、お味噌だけは大事に肌身 離さず懐に命のつなぎだといって持って居られました。母親の知恵です。母は道ばたの溜まり泥水、 血の匂いがする水ではありましたが、貴重な水を湯飲み茶碗に汲み、味噌を指で溶かして一人一人に 飲ませてくださいました。それで皆、元気を取り戻して歩く事ができたのです。母親って本当に素晴 らしい偉大な命の恩人です。喜屋武岬部落と海岸は三百メートルくらいの距離しかなかったと思いましたが、海上には海水の色 も見えない程に米艦隊が真っ黒に浮いていました。その不気味な光景は今でも脳裏に刻まれています。8.母と弟の死住民は避難場所もなく、道路いっぱいに人が歩いていました。その頃の私は、直撃弾が落ちて、家 族と一緒に死ねることを祈っていました。その時は「もう生き延びられない」と思っていました。そんな中でしたが、私たちは民家の屋敷内にやっと入り込む事ができました。その家屋は大きな茅 葺きの屋根があり、散々射撃を受けた跡がありました。本家は人があふれて入れませんでしたが、家 畜小屋に避難することができました。海からの艦砲射撃がビュービューと雨のように降り注いできます。そしてガジュマルの大木に落下し、そのとき飛んだ大きな破片で、母は両手両足を切断されてしまいました。家族が駆け寄り母を横にしましたすると武夫がうずくまっているのが見えます。武夫は破片が脇腹を貫通して即死でした。私は動揺し「武夫もクマンジニントンドー(こっちで寝ているよー)」と大声を 上げました。母は「武夫が一緒だから良かった」とおっしゃって、武夫を抱かせてくれと話されました。母は両 手、両足もないのに、意識もしっかりして一言も痛いとおっしゃることはなく、一時間くらい父親や 私たち子供に話しかけて居られました。 「あなた方が大きくなる姿を、成長を楽しみにしていたのに、将来の姿を見たかった」ということを 私たちにおっしゃいました。父には「二人で苦労して育ててきたのに、あなた一人に背負わせてしま う」というようなことを話され、私たちの将来のことを頼んでいるようでした。母の顔色は次第に白くなり、静かに目を閉じ、そして息を引き取りました。これが母の最期です。六 月十日、昼三時頃の出来事で、母は四十九歳でした。夕方になり敵の攻撃も静かになった頃、そこの 家の前のキビ畑を掘り、母に弟を抱かせて一つの 穴に一緒に葬りました。母は私のセーラー服地と同じ木綿糸で織った着 物を着ていました。その上から敏姉さんが嫁入り 仕度にと大事に持っていた着物をまとわせて見送 りました。それは蚕の繭から取れた絹糸で織った綺麗な色柄の着物でした。父は方角も正確に定め、目印に仏桑華の花を植えました。それから残された家族は生き延びるために、母と弟の眠る喜屋武部落を後にしましたが、進む陸地 はなく最南端の救迦名部落に向かいました。現在その部落は「つかひな」と呼ぶそうですが、当時は「ちかひな」といいました。そこは逃げる人で混乱し、あちらに行く人もこちらに来る人もいて、まるで 蟻の行列のようでした。9.生き埋めになった体験部落は摩文仁が丘の目と鼻の先にあります。摩文仁が丘は日本軍の陣地で、攻撃が凄かったので、隣の山城部落にいきました。そこで縦穴式の壕を見つけ、その晩はその壕で 避難することに決めました。 明け方頃になり、私たちの入っていた壕の近くに爆弾が落下し、その爆風で避難していた壕が丸つ ぶれになりました。私、妹芳子、兄嫁の初枝姉さん、その息子政夫君の四人が生き埋め寸前となりま した。幸いにも私たちの壕と離れた場所に別にもう一つ壕があり、残りの五人はそこに避難していた父、敏姉さん、豊姉さん、弟の浩と行夫が別の壕に入ってい て四名の命は救われたのです。スコップで私たちを掘り出してくれて助かりました。初枝姉さんは丸太が 動きもできず重傷を負いました。山城部落での出来事は、六月十八日頃でした。私たちは再び東辺名に戻りましたが行く先はなく,摩文仁が丘の海岸目指して下りていきました。途中日が暮れたのでアダン林の中で一晩を明かしました。六月十九日のその晩は大雨でした。 そこで同級生の島袋美恵子さんの家族に会いました。隣部落の諸見里の人たちです。しかし美恵子 さんの姿がありません。美恵子さんのお母さん。お姉さんの治子さんと弟妹たち、お母さんの妹さん もいましたが、美恵子さんがいないのです。治子姉さんに、美恵子さんのことを聞くと昨日トゥムイ グシク(富森城)で亡くなったということでした。私は同級生の死を信じられない思いで聞きました。 夜が明けアダン林の中でも真昼の機銃攻撃を受けました。そこで、美恵子さんのお母さんの妹さん が亡くなられました。妊婦の方でしたので非常に残念で,悲しくてなりませんでした。そのアダン林 も狙われていたので、真昼でしたがそこを出て海岸に向かいました。10.血に染まる浜辺私たちは安全な場所を求めて、険しい岸壁をゆっくりゆっくり下りていきました。砂浜を歩いてい ましたが敵の攻撃はありませんでした。海上には日本兵らしき人たちが十人程乗った船が十ぐらい浮 いていました。砂浜には亡くなった住民や兵隊が足の踏み場もない程に何百人。何千人と横たわって います。集団自決したようでした。女学生らしき人たちがあちらこちらに五、六人ずつ、綺麗に並んで眠っている姿もも られました。実に悲惨な信じがたい光景でした。あの悲悔な光景、あのように人を虫けらみ 追いやった戦争をどうしても許すことができません。あの残酷な情景を思い出すと気が狂いそうになります。世界中の全人類の皆様よ、このような出来事をどう取り返せばいいのでしょうか。 それから私たち家族は前進することもできず、摩文仁の浜を彷徨っていました。父親は皆に「元気を出して生き延びよう」と励ましてくださいました。体力も尽き果てふらふらと 歩いていると、前方でアメリカ兵が、砂浜に掘っ穴の中から銃を向けて出てきました。「手荷物は全部捨てて両手を上げて進んで来なさい」と放送していました。空からのゲタバキグライダーで宣伝ビラをまきなが らの放送でした、 私たち家族九名は六月の二十日夕方に、摩文仁が丘の砂浜で捕虜となりました。小緑の広場まで歩かされました。そこには捕虜になった方々が大勢いて、米軍のトラックの前に長い 列をつくっていました。シーレーションとコンビーフの缶を配っていたのです。何日も食べ物のない 生活をしておりましたので、私たちは何度もその列に並びました。 そこで一晩すごすと翌日の二十一日は、トラックで宜野座のスーキカンナーの浜端に連れて行かれ ました。そこの松林で一腕をすごし、翌日は福山(現惣慶)の瓦ぶきの家に、美恵子さんの家族と一 緒に収容されました。その頃になると山から多くの人が捕虜になるために下りてきました。中には日 本軍の兵隊もいました、 福山で一カ月程過ごしていた頃、叔母(母の妹)の住む北中城島袋部落の避難民の方々も福山に格 動させられました。その中に叔母の家族もあり、約半年ぶりに身内と生きて再会できた喜びに浸り、 抱き合って涙を流しました。三区に移動し、共に茅事き長屋を造って一緒に住むことになりました。私たちが戦場をさ迷っている四月頃、叔母は私たちが帰ってくると思い一番座を 空けて待っていたそうです。しかし毎日待っても帰ってこないので別の方が入ってしまったそうです。幾多の困難も体験し、苦しかった沖縄戦も終わりました。出兵していた二人の兄も無事に元気で、 昭和二十一年頃に復員となりました。しかし家には最愛なるお母様の姿はなく、兄たちが悔し涙を流 していたのが昨今のような気が致します。母を思って泣く私たちに、父がよく言ったことがあります。「お母さんと私、どっちが亡くなったら よかったのかね」。誰よりも父は悲しかったし、寂しかったと思います。それでも私たちに前向きに生 きてもらおうと、そういう言葉をかけてくれたのだと思います。 そう言われると、私たちは何も答えられませんが、父だけでも生きて一緒に生活できるこ 一を有難 く思うようになりました。父がいたから戦後の生活があるのですから。 まだまだ小さな弟もいましたので、父は母親が必要だと感じたのだと思います。後妻を迎えました。 カミーさんという優しい女性で私たちの育ての母です。自分の子のように愛情を注いで育ててくだ さったカミーお母さんには大変感謝しています。カミーお母さんは、私が嫁入り前になると色々なことを教えてくださいました。「ヤーナレーヌ カナレードー(家習いは外習い)」。これはカミーお母さんの教えてくれたことで「家で良くできれば 外でもできる」という意味で、家では何でもできるようにという教えです。これは非常によい教訓と なって、その救えは子や孫に受け継がれています。 新しい母を迎えて父も落ち着いたのでしょう。父は終戦から約二年後に母と弟の遺骨を迎えに行きました。お墓の仏桑華も実り、綺麗な花がいっぱい咲き誇っていたそうです。こうして戦禍の中、確かな母と弟武夫君の遺骨だけでなく、母の金歯や足や腕の骨な 骨があるということは、不幸中の幸いだと思っています。母と武夫君の遺骨は全部拾いあげることができました。11.二人の母を思い出す曲「あんまー形見ぬ一番着物」や「戦の時代」は名曲で、私たちの世代の思いにぴったりの曲です。これは普久原恒勇さんの作曲ですが、私はこの曲を聞くといつも二人の母を思い出します。「あんまー句 いぬ残とんどー昔あんまが糸ちなじ藍染、紺染ぬ着物ちゅくてぃ肩にかきたる一番着物」。私は いつもこの曲を聞きながら眠りについています。 幼い頃、生みの母が作ってくれた着物を思い出し、涙が出ます。また、育ての母から頂いた形見は、紺 色の着物でした。私はその着物を丁寧にほどいてジャケットに直しました。この服を着ていると、 色々なことが思い出され、側に母がいるように感じます。いつまでも大事にしたい宝物です。 親孝行したいときに親がいないのは辛いものです。育ての母には少し孝行できましたが、生みの母 には何もできませんでした。着物を縫ってあげたりできたと思うのですが、それが叶わず残念でなり 戦争さえなければ昔を語りながら楽しく過ごせたはずだと思うと、悔しくてなりません12.見届けたい平和な沖縄この記録には、詳しい内容は一切記してありません。ただ粗筋を書いているだけです。約三カ月間 の戦場で経験したたくさんの困難、暮らしや苦しみ、日本兵から受けたいじめは時間がいくらあって も語り継ぐ事はできないと思います。私たちが無事に戦禍をくぐり抜け生還できたのは、父の偉大さ、誘導や判断力があったからだと誇 りに思い感謝しています。その父も一九七一年(昭和四十六年)に七十八歳で亡くなられました。父とは戦争の話もできないままでした。当時はそんな余裕はどこにもありませんでした。父は何を 思っていたのでしょうか。父は午年ですから、生きておられたら百十四歳になっておられます。母は 未年で百十三歳。弟武夫君は丑年で七十一歳になっています。これだけの年月がたっているのに、あ の悲惨な出来事は今でも鮮明に覚えています。戦争を体験した私たちが生きている間に基地のない平和な昔のような暮らしがくることを望みます。私の余生も短くなってきましたし、子供たちや孫たちの時代は二度と戦争の起こらない、住みよい沖縄 を取り戻すことを祈願いたします。基地も戦争もなく平和な暮らしを見届けない限り死にきれません。 まだまだ小さい孫も二人おりますし、ひ孫も三人います。小さい孫たち五人は、今が最高に幸せな 時期ですが、まだまだ幼すぎて戦争の話は無理ですね。沖縄戦の話は成人した孫たち五人と子供たち にはしっかりと語り伝え教育してあります。私は絶対に基地反対、戦争反対です。その思いは戦後六十三年たった今でも揺らぐことはありません。あの悲惨な光景は一日たりとも脳裏から消えたことはありません。戦後処理はまだまだ済んでいないのです。私たちが見てきた、あの悲惨な戦争の犠牲者 はどのような思いでしょう。そのことを考えるといつも胸が痛みます。戦争中、戦場の細々な出来事、体験談はたくさんありすぎてこれ以上、書き表すことはできません。 このような恐ろしい体験もして生き延びてきて今日があるのです。あとがきあの恐ろしい体験を子や孫に伝えなければならない。そう思うようになったのは 最近のことではありません。常に私の心の中にありました。最初はノートに書き 綴つていましたが、集団自決の教科書検定問題などの社会状況を見ていると、あの 体験を残すことは、沖縄の戦場を生きた私の義務だと感じるようになりました。あの悲惨な体験は思い出したくもありません。頭痛がして胸が苦しくなることも ありました。本書を執筆しながらも幾度となく涙が溢れ、何度も書面を濡らしまし たが、それでも戦渦に巻き込まれ亡くなった母や弟、そして戦場で見た多くの犠牲 者たちの魂が、私に執筆させているのだと思います。「平和の尊さ」。耳にタコができるほど聞いた言葉かもしれませんが、それでも訴 え続ける必要があるのです。本書が教訓となり、平和な社会づくりの一助となれば 幸いです。謹呈毎年、冬が終わり太陽の日射しが強くなってくると、あの六十三年前 の出来事を思い出します。当時十四歳だった私も八十近い年になり、孫 やひ孫に囲まれた幸せな日々を送っておりますが、戦争の記憶は一時も 消えることなく私の胸の中に住み続け、目を閉じるとあの残酷な光景が 浮かび上がります。今回、拙文を顧みず戦争体験を綴ったのは、私と同じように、幸せを つかめたはずの多くの命に対する責任だと感じるからです。戦争の真実 を少しでも多くの人と共有し、世界が平和の実現のために歩み始めるこ とを祈念して、本書をお贈りいたします。平成二十年夏 屋良冨美子=======================※よろしければ他記事もどうぞ ダウンロード copy この記事が参加している募集 #この経験に学べ 63,247件 #この経験に学べ #沖縄 #戦争 #平和 #orangerange 54 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート