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50代からのリスタート:樺太から引き揚げた祖母の話

私の祖母は「樺太」からの引揚者です。
52歳で人生のリスタートをせざるを得なかった
祖母の話を書きたいと思います。

「メメント・モリ」写真展に行った話から始まります。


「メメント・モリ」=「死を想え」


東京都写真美術館で開催されている写真展を見に行きました。

メメント・モリ[Memento mori] とは?
ラテン語で「死を想え」という意味を持つ「メメント・モリ」は、キリスト教世界において、人々の 日常がいつも死と隣り合わせであることを示す警句でした。この言葉は、ペストが大流行した中世期に描かれた、骸骨と人間が踊る様子を描いた「死の舞踏」と呼ばれるイメージと結びつき、広く使われるようになります。その背景には、伝染病、戦争、飢餓といった困難の多い時代を生きた人々が、身近にある死への恐れとともに、人間もやがては死すべき運命であることを自覚することによって、生きることに積極的な意味を見いだそうとした様子がうかがえます。

警句として広まったきっかけは、
中世末期のヨーロッパで起こったペストの大流行でした。

1347年に地中海の主要都市を中心に流行が始まったこの疫病は、51年にはロシアにまで達し、70年ごろ一応の終息に達するまで、西欧の総人口のおよそ4分の1から3分の1に当たる約2000~2500万人もの命を奪ったとされる。

https://doyusha.jp/covid_19/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%80%80%E3%80%8C%E3%83%A1%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%80%8D

日本のコロナ死者数は人口100万人当たり245人のようですから、0.02%です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/bb81b8ed66510cc91bd23952a5c238c03acbd8aa

コロナとは比べ物にならない大流行。
ワクチンもない、医療体制も整わない700年近く前のことです。
人口の1/3もの人が亡くなる。
それは日々「死」が「明日は我が身」だったことでしょう。

いくつかのテーマごとに、展示がされていました。
戦場写真
飢餓の間近にある人々の写真
日常の中の「死」を想起させる写真

その中に偶然にも、小島一郎という方の、
「青森 津軽」を舞台にした写真がありました。

荒涼とした、雪に覆われた平野
地平線の見えそうな、どこまでも続く田んぼ
厳しい自然と、その中で生きる人の対比が切り取られていました。

写真展は、私の82歳の叔母さん(母の妹、祖母の娘)と、
従妹( 叔母さんの娘)と一緒に行きました。

作品の場所「つがる市木造(きづくり)」は母の実家、
私の祖母が生前住んでいたところです。
叔母さんも昔住んでいました。

ほんとにこんな風だった
と食い入るように見つめる叔母さん。


祖母の話


以前、母は「樺太」からの引揚者だと書きました。

母が小学校2年生の頃、祖母は52歳頃の話です。

樺太を後にし、北海道にいた親戚の家に身を寄せたそうです。
その後、木造に居を構えました。

「樺太から引き揚げた」背景を知りたいと、本を読みました。

2017年8月14日HHK放映の番組
「NHKスペシャル 樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇
を本にまとめたものでした。
番組もアーカイブで見ました。
樺太の人たちは、1945年8月15日に戦争が終わらなかったのです。
なぜかそのあと7日間戦争が続きました
多くの民間人が犠牲になったことは、あまりにも知られていません。

母の記憶はこうでした。
・「ロシアが攻めてくる」という情報で山に逃げて隠れた。
・何日か後に収まり、家に戻った。
・暫くしたらロシアから民間人が来た。
・そのままロシアの家族と、1~2年同じ家で同居していた。
・そのあと引き上げになった。
本の内容と一致していました。

祖父は私が生まれた時にはもうこの世にいませんでした。
祖父は腕の良い漁師だったようです。
住み込みの使用人が何人も家にいたそうです。
海はまさしく宝の山だったそうです。
魚が「取れて取れて」と母は言いました。
ニシンが来たときは、海一面が波打ち近づいてくる様子が
陸から見えたそうです。
祖母は使用人と大家族の食事を作り、漁のあとの手伝いなど、
それはそれは働いたようです。

そして引き上げ。
一人当たりの荷物の量を決められ、身一つで引き揚げてきたのでした。
52歳からの、ゼロからの再スタート

祖母は、丘の上から海を見渡してこう言ったそうです。
何も惜しくない。この海だけ惜しい。

ばあちゃん、格好いい(笑)!!
どこまでも、前を向いて、運命に立ち向かっていたんですね。

そして、写真が映す「荒涼とした」「なんにもない」場所での
再スタート
そのあとも随分と苦労したようです。

私が生まれた時には、祖母は既に70歳を超えていましたから、
私が祖母の人生について興味を持つ年頃になった時には、
祖母はこの世にはいませんでした。
祖母の口から、当時のことを聞いてみたかったです。

祖母は98歳で亡くなりました。
その少し前に会いに行きました。

「ao、試験どうした?」
と祖母は聞きました。
私はもうとっくに社会人になっていました。
「ボケたのか、誰かと勘違いしているのかな?」
そうしたら、一級建築士の試験のことでした。

子供が9人、それぞれに子供がいますから、孫は相当な人数です。
それを、会った瞬間に「試験どうした?」と聞くばあちゃん!
最期まで、本当に気丈な人でした。


長生きも悪くない


「青森 津軽」の写真は「1958~1960年」のものでした。
叔母さんの年齢からすると20歳頃の風景です。

展覧会の後、3人でご飯を食べたときのこと。

「1960年って、そんなに昔じゃないよね?」
従妹が言いました。
「60年前。ほんとね。まさかこんな時代になるとはね。」

「こんなに変わるのが見られるんだから、長生きも悪くないね?

私が言うと、叔母さんは
「そうね」
と言って笑いました。

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