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全人生をかけるに値するもの

前回マティス展のことを書きました。

マティスの晩年を支えた「リディア・デレクトルスカヤ」
という女性に興味が沸きました。

※トップ画像は《夢》1935年
リディア・デレクトルスカヤを描いた、マティスの作品のひとつです。

相当な「強い意思」の人だったのでは?と思いました。
紹介したいと思います。

以下、こちらからの引用です。


リディアとマティスの最初の接点

1932年、マティスは、アメリカの富豪アルバート・バーンズのために、伝説的な大作である「ダンス」の新しい作品づくりに取り掛かっていた。
すでに60歳を超えていたマティスひとりでは描きあげられず、助手を必要とした。
助手の求人を見て応募したのがリディアであった。
場所は南フランスのニース。リディアは、当時22歳のロシア人移民だった。

作品が完成したとき、リディアは支払いを受け取り、荷物をまとめていたが、マティスの妻が、真面目で静かで知性のあるリディアを、介護人として雇うことにしたのである。


マティスが生涯を終えるまでの22年をともに過ごす

リディアはよいシッターであるだけでなく、家計のやりくりにも、秘書としても才能があることが分かった。
マティスの妻が体を壊すと、マティスのあらゆる仕事や世話をリディアが引き受けることになった。
彼女を女性として見ていなかったマティスも、次第に彼女をモデルとして扱うようになり、肖像画を描くようになった。

家庭の二重生活は続き、正式な夫婦の危機が深刻化し、1939年、夫婦関係は破綻した。
リディアは、マティスが生涯を終えるまでの22年間をマティスとともに過ごした。


リディアの生い立ち

リディアは1910年、変革の時代の直前に生まれた。
貴族のインテリ一家に生まれたリディアはまもなく孤児になった。
革命が勃発し、赤軍を逃れて、中国のハルビンへと逃亡した。

リディアは20歳で結婚し、パリに移り住んだが、うまくいかず、離婚。
わずかな権利しか持っていない移民者にとって、まともな仕事を見つけるのは困難で、リディアは映画のエキストラ、ダンサー、モデルなど、さまざまな仕事をこなした。
その2年後の1932年、ほぼ所持金も持たずにニースにやってきた

リディアは、両親の元では家庭教育を受け、ハルビンではギムナジウムを卒業した。
パリではソルボンヌ大学に入学したが、学費が払えず、長期間、勉学を続けることはできなかった。
彼女は良家に生まれた教育のある女性だったのである。


献身的なサポート

マティスの妻はロシア人女性は狡猾な女だと嫌っていたが、彼女はおかまいなしだった。

リディアは22年にわたって、マティスを全面的に支えた
必要な事務作業を行い、家事をこなし、身体が動かなくなり始めてからは(マティスは喘息、関節炎、年老いてからは癌を患った)インスピレーションを与え、慰さめ、蒐集家や役人らにマティスに興味を持つよう宣伝した。
戦時中には、南部の街ヴァンスに避難したが、食料品を調達したり、凍えないよう対処した。
リディアのイメージは、マティスの多くの作品に残され、その数は90点以上に上っている。

マティスは1年に2度、リディアに絵をプレゼントしたが、 その他にもリディアは、毎月受け取る秘書としての給料を、すべて彼のデッサンや彫刻を買うのに使った。

夫婦関係が破綻したのはリディアの存在があったから。
しかしマティスの晩年の作品は、間違いなくリディアの支えがあったから生み出されたのですね。


マティスの死後もマティスのために

マティスが1954年に亡くなった後、彼女はマティスの正式な家族に解雇されることになる。
最後の2年を共に暮らしたニースのマティスの家(現在、この海沿いの家はマティス美術館になっている)を離れたリディアは、パリに移り、その後40年あまりにわたって一人で生活した。

マティスをテーマにした論文を執筆したり、インタビューや展覧会の組織など、マティスの遺作を宣伝するためのさまざまな活動を行なった。
リディアはマティスの作品を販売せず、ロシア語とフランス語の翻訳や通訳の報酬を生活費にしていた。


故郷への思い、ロシア人としてのアイデンティティ

第二次世界大戦後すぐ、リディアはフランスに駐在するソ連の外交代表部と繋がり、祖国に最初の9作品を寄贈した。
自分はロシア人であり、同じロシア人に偉大な作品を紹介したかったからと説明している。
リディアは合わせて300点以上の作品をエルミタージュとプーシキン美術館に寄贈した。

今、ロシアにあるマティスのコレクションが世界でも最高のものとされているのは、多くの点でリディアのおかげだと言える。

リディアは若いときに帝政ロシアを去ったが、長年にわたり、すでにソ連となっていた祖国に帰国することを希望していた。

当時すでに美術館との間で活発な活動を行なっていたにもかかわらず、ソ連当局は彼女の帰国を認めなかった
リディアが貴族出身で、新政権の樹立に際し、国を逃れたことが原因とされた。

このような仕打ちを受けてもなお、リディアはロシア人にマティスのことをフランス人にはロシアの文化を紹介したいという気持ちを抑えることはできなかった。

それでもなお「自分はロシア人である」という思いは、
私たちには想像しがたいものがありますね。


87歳の最期

リディアは、1998年に自ら命を絶った87歳だった。
リディアは、遺言に残してもロシアに埋葬されることはないだろうと考え、
前もってパリの墓地に墓を買った。
墓石に、パブロ・ピカソが送ったと言われる言葉を刻んだ。
「マティスは永遠に残すために彼女の美しさを守った」と。

その後、リディアの姪が彼女の遺言通り、
遺灰をサンクトペテルブルクのパヴロフスク郊外に改葬した。
リディアは灰になってロシアに帰ることが出来たのである。

マティスは生涯最期の22年をリディアと過ごし、
リディアはその後40年あまりもの年月を、
このような形で過ごしたんですね。

終始一貫して、自分のためでなくマティスのため
それが、彼女が全人生をかけるべきものだったんですね。

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