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大好きな絵本とホットケーキの話

子どものころ、エプロンを付けると「すてきなおとな」になれた気がした。
母と一緒にキッチンに立つと、決まってコンロの前には小さな椅子が準備されている。この椅子に乗ると、背伸びをしなくても、とろとろと燃えるガスの青い火を飛び越えて、フライパンの中までちゃあんとみることができた。

当時の私は、「しろくまちゃんのホットケーキ」という絵本が大好きだった。
ぱっと明るい橙色の表紙のその絵本は、しろくまちゃんが、おかあさんといっしょにホットケーキを作る物語。母と一緒に、あるいはひとりで、何度もその絵本を開いては、しろくまちゃんがホットケーキを作ってゆくところを見つめていた。

時折、母はそんな私にエプロンを着せて一緒にホットケーキを作ってくれた。

「ぽたあん」から始まり「ぷつぷつ」、そうして、「やけたかな」「まあだまだ」と言って、「ふくふく」「くんくん」「ぽいっ」としたら、「はい できあがり」

ホットケーキが出来上がると、母が両手で頬を包んで、大袈裟なほどに髪を撫で、抱きしめてくれる。母の手はいつもあたたかくてさらりとしていた。ホットケーキには、バターとメイプルシロップをたっぷりとかけてくれたから、私は立派な甘党に育った。

気付けば、あの時の母と今の私の歳は殆ど変わらない。
右も左も分からぬ子育ての心細さの中で、それでも、自らを奮い立たせて母親として在ってくれたのだと今なら分かる。

ひとつ、ふたつ、どの家庭でも同じように、私と母の間にもわだかまりはある。それでも、私の根っこには母の手のひらの温度と抱きしめられた記憶が息づく。それは、あの絵本の様なあたたかい橙色をして私の心に灯る。
ひとつ、ふたつ、あっという間に母も私も歳をとる。

今度、母とホットケーキを食べようかと思う。
なんてことない昼下がりがいい、少し眠たくなる様な陽気の中で、ホットケーキは私が焼くつもりだ。多分、いつもより少し素直に話ができる気がする。


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