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私とジャニーズ【四十路オスティアラができるまで】自分語り

この文章は1972年2月5日生まれの、どっからどう見ても立派に仕上がったおっさんの私が、ジャニーズ好きを公言すると共に、今までの道のりを振り返るために書き、応援しているKing & Princeのデビュー日である5月23日にトリビュートとしてアップするものです(因みに2月5日はジャニーズWESTの結成日。今までは「山田五十鈴先生、西郷輝彦さん、大地真央さん、長州小力さんと同じ誕生日です」と言って来ましたが、お陰様でもうそれは終わりを告げました!)

書き始めてから情報の正確さのため調べごとをしたり、ウラを取ったり、失礼や勘違いがないようにとしている内に四十路どころか、50代に突入してしまったという足掛け2年の長期執筆になりました。そしてやたら長くて何だかよく分からないてんこ盛りになっている上、発表時には実年齢「四十路→五十路」とタイトルとギャップができてしまっている事を白状して、お詫び申し上げます。すみません。およそ時間軸が「子供時代→現在」となってますので、書き始めの動機であったキンプリのエピソードはずーっと出て来ないので、お手数ですが目次から「私を救った"Key of Heart"」まで飛んでください。ともあれ、世の中へのカミングアウトと極く私的な呟きを「あー、分かるわかる」「へー、そうなんだ」などと生ぬるく眺めてください。もしコメント欄にご自身の思い出や、お勧めのグループ、好きな曲、辞めジュを含む推しのことなど色々教えていただけたらそれも嬉しいです。

それにしても「私とジャニーズ」などという大それたタイトルで始めてしまって、なんとも心の収まりが悪いワタクシ。でも、今までの人生の中で、大袈裟に言えば何度も命を救われて来たので「命の恩人ジャニーズの皆さん」みたいなタイトルをつけても良いくらいに思っているので、私的な振り返りでもある事だし、ここはひとつ目を瞑って頂けたら幸いです。普段ジャニーズに興味がない皆さんには分かりにくい事もあるかも知れないので、極力そういった表現は避ける事にしました。え?タイトルにあるティアラが何の事か分からないって?それはKing & Princeというグループのファンの総称の事で、男性ファンは「オスティアラ」という呼び名もあります。あぁ、早速すみません。こんな事はジャニーズファンの皆さんならもちろんご存知でしょうし、またお一人お一人色んな物語りがあると思います。きっと皆さんが通って来た道だったり、当たり前のことばかりとは思いますが、今まで足掛け40年、長〜くかかった赤の他人の沼落ち記録として軽く眺めてくだされば幸いです。

因みに私、今はKing & PrinceHey! Say! JUMPの掛け持ちです。スノストの同時デビュー時には踏みとどまったけど、最近はいっその事、なにわ男子も追っちゃおうかなと思いつつ、なんだかんだ言いながらHi Hi Jetsも推しているというような、本当にどこにでもいるジャニーズファンです。つまり「愛すればもっとハッピーライフ」どうぞ宜しくお願いします。ではまず私の子供時代から遡ります。

※より正確な内容が判明した場合など、今後文章を再編集する場合がありますのでご了承ください。

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【ジャニーズアイドルとの出会い】

私が子供の頃は70〜80年代。テレビは夢の箱。歌謡曲・歌番組全盛の時代。その中で郷ひろみさん、川崎麻世さん、ひかる一平さん、「たのきんトリオ」や、それに続く「シブがき隊」「少年隊」らの活躍は小学生の私にも人気者としてしっかり記憶されています。余談ですが近所のスーパーの盆踊り大会に「マッチでーす!」と、近藤真彦さんの物真似で大ブレイクしていた若き片岡鶴太郎さんが来たのを体育座りをして最前列超至近距離で見たこともありました。浦安市富岡の「京成スクエア(当時)」というスーパーとテナントが集まった商業施設でした(もう40年も前の話しです)先日その話をしたら若い子が、鶴太郎さんはヨガとかボクシングとか絵の人としか認識していなくて、大きなギャップを感じました。オレたちひょうきん族で小森和子さんや浦辺粂子さん、小林旭さんの物真似したり熱々おでんやったりしてた過去は歴史の中でなかったことになってしまうのでしょうか。一視聴者としてはとても残念です。さてさて、子供ながらマッチたち男性アイドルの人気ぶりを実感していた訳ですが、流石に当時は子供でしたから「ジャニーズ事務所」という所属事務所を知る由もなかったですね。周りの大人にも紅白に近藤真彦さんが出て客席がキャーキャー沸くのを「こんなのが良いのかねぇ。ちっとも分からない」みたいな反応する人が一定数いたのを覚えています。ところが、中学一年の時にあるグループのデビューを目の当たりにして様々に景色が変わって行くのでした。「好きになってく 愛してく」

中学一年【光GENJI】のデビューが与えたインパクト

光GENJIデビュー曲「STAR LIGHT」を初めて聴いた日を今でも良く覚えています。ご存知の方も多いと思いますが、あれは本当に耳に残る良く出来た曲で、当時ブラバン小僧で、クラシックやビッグバンドジャズは聴いてもアイドル歌謡に全く興味がなかった私の耳にも殴り込みをかけて来ました。ギンギンのホーンセクションのサウンドもカッコ良かったですし。ローラースケートでステージを所狭しと走り回るパフォーマンスには驚かされました(往年の大スター藤山一郎さんが戦前?ローラースケートでステージを走ってアコーディオンを弾いたという「元祖」説を聞いた事があるけれど、彼らのパフォーマンスは圧巻で衝撃的なインパクトでした。後に2000年代になってから諸星和己さんご本人をコシノジュンコさんのパーティーでお見かけした事がありますけど、キラキラというより「ギラギラ」したオーラを放ちまくるエネルギーの塊みたいな雰囲気の方でした。スター性と言いましょうか、カリスマ性と言いましょうか、当時の勢いは推して知るべしですね。

さて、間違いなく同時代におニャン子クラブ全盛期をリアルタイムで経験しているはずなのに、殆ど何も覚えていないほどテレビアイドル事情に疎かった私でさえ「光GENJI後」では世界が変わってしまったと白状します。その位、世間の耳目を集めて「次は何だろう」と気になって仕方がない存在。密かに明星の付録や別冊明星で楽譜を集めては(当時、「男性アイドルが好き」と言うのは何となく気恥ずかしいモノでした)コソコソピアノで練習していたこともあリました(独学でポピュラーピアノがモノにできる根気とセンスがなかったので、メロディに簡単なコードをつける程度。それなのに結果的に今は音楽家になっているので「人生は素晴らしい」

余談【口パク論争】

さて、その後彼らの快進撃は進み、社会現象にもなったのはご存知の通り。どこにでもローラースケートに興じる子が見受けられました。私と妹もクリスマスプレゼントにローラースケートをもらって近所を走り回っていました。その頃から今に至るまでキスマイHi Hi Jetsにその伝統が引き継がれているのは凄い事ですね。

当時の出来事でよく覚えているものに「光GENJIは口パクなのではないか」という論争がありました。その頃は職業歌手について社会一般に「歌番組でズルをするとは何事か!歌ってこそ歌手ではないか」みたいな空気があったのですね。あれから随分時間が経ちましたけれども、昨年デビューした「なにわ男子」のパフォーマンスについても「口パクで萎えた」というツイート(ツイ主は恐らく若い人)を見たことがあるので、今でもそういう価値観の人は一定数いると思います。生身の身体があんなに激しく踊りながら、デビューキャンペーンとかプロモーションで一日の内に何回も何回も生歌を披露したら喉を壊すと思うので、個人的にはバックアップの音源だと逆に安心。一部歌割りが生歌で、あわよくばアドリブ聴けたりするとラッキーくらいに思ってます。推しの身体の事を思ったら、それで「ええじゃないか」

さてある日、新聞の投書欄に「口パク」について読者から意見と質問がありました(記憶が正しければ当時我が家は毎日新聞だったと思う)、その投書に対して、社名ではなく「ジャニー喜多川」の名前で「エンターテインメントの演出の一環として、より良いショーをお届けするために録音を使う場合もあります。これからもどうぞお楽しみください」という大意の返答があった事を覚えています。何となく子供心に納得して印象深かったですね。恐らく大幅に見当違いなことは書いていないと思うけれども、もし、どなたかこの記事ご存知だったらお教え願いたいと思う次第です(私は思い出を書き記したいだけで、研究者ではないため、図書館で縮刷版やマイクロチップをくまなく読んで当該記事を発見する労を執らない事をお許しください)

さて、先ほどの「口パク」問題の続きですが、実際に今の仕事(私の本業はアコーディオン弾きとして、音楽業界の端っこの方におります)に就いてから、歌手のコンディションや会場の状況によってはバックトラックを使う現場をいくつも見て来ました。今では誰も批判などしないし、むしろ主流にさえなっている感があります。時代は劇的に変わったのでしょう(特に屋外で強風だとマイクが風の音をボーボーと拾ってしまって歌えないなど、様々なケースがあるので、バックトラック音源を利用していることは大いにあり得ます。また、録音を後ろに流しておいてメンバーそれぞれのソロパートのところだけは生歌になるようにパートを省いた音源を使うなど、幾つかバージョンがあるのが今では普通だと思います)

加えて、光GENJIの場合は労働基準法の都合で当時低年齢の一部メンバーが20時以降テレビ出演できない時があって、その際にフルメンバーの歌唱音源に合わせて放送した…などの事情があったと聞いたことがあります。複数のメンバーが「歌割り」をするのでもしかしたら始めは苦肉の策だったのかも知れないな、などと色々と勝手に想像してみたりしました(後に国会でも質疑があり審議を経て俗に言う「光GENJI通達」が出され、夜の番組でもメンバー全員で出られるようになったというエピソードは有名ですね。改めてすごい人気!でした)

そう言えば「歌手は歌をしっかり聴かせるものだ」という概念・価値観を強く持っている上の世代の方々に関して思い出すのは、シブがき隊が1985年(昭和60年)第36回紅白歌合戦に「スシ食いねェ!」で出場した時、私の父はリアルタイムで観ながら最後の最後まで「応援合戦のアトラクションの一つ」だと勘違いしていました。エンタメの概念が世代間で変わっている身近な例として今でも忘れられません。それでこそ、トンチキソングの金字塔。でも、改めて2022年カウコンで披露された元気5の「スシ食いねェ!」良かったですね。正に「笑顔のゲンキ」

高校生【照れくさくって距離をおく】

その後高校へ進学した頃には、ニュージーランドの姉妹校からホームステイに来た女の子たちが「Oh, GENJI!!」とキャーキャー言っていたのを見て「アルファベットのグループ名は外国の人にも覚えてもらえて強いな」と横目に思うくらいにはまた醒めた子供に戻っていました。

やっぱり今思えば、一つにはどこか照れ臭く恥ずかしいように思う気持ちも多分にありました。多感なお年頃でしたから。ところで、当時はアルファベットが入ったグループ名はまだなかったように思います。SMAPTOKIOKinKi KidsV6もデビューするずっと前の話しですから改めて気が遠くなります。

もう一つには部活動の吹奏楽に没頭していた私の頭に、歌謡曲の入るスペースが無くなったこともあります。けれども振り返れば文化祭の恒例企画に、生徒の何組かが流行している曲をブラバンの伴奏で歌えるという目玉があり、早々に課題を公募して夏休みの間のコンクールシーズンの間を縫って音源を聴き耳コピでフルバンドの楽譜起こしをするのですけれど、伴奏を引き受けた中に少年隊の「仮面舞踏会」「君だけに」があったのを覚えてます。その後アメリカ留学をしてしまったり、大学受験などが重なり、これと言ってジャニーズとは接点のない毎日に戻って行くのでした「チャールストンにはまだ早い」

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過去に色々処分してしまったので、今手元にある資料で一番古いのはこちら。「表紙の人」欄に曰く「ファーストライブビデオ好評発売中」とあります(1995年9月27日)

〜歌謡曲全盛の頃に自然とジャニーズアイドルに触れ、光GENJIで度肝を抜かれたブラバン少年だった私。けれども照れ臭くって知らんぷり。この先は大学入学以降、そしていよいよ今までの反動で、全開になる現在までのお話しです〜

【学生→就職・脱サラ→ミュージシャン】

私が学生時代を過ごしたのは90年〜94年。大学では中国語を専攻しました。そのせいもあって香港や台湾の映画スターや歌手などについて一通りの洗礼は受けましたがインターネットもない時代、入って来る情報もまだ少なかった上、中国語圏の歌手は歌唱力を前面に押し出した歌い上げバラードの割合が高くて気軽に聴くというよりは歌と向き合わなくてはいけないので重く感じていました。かろうじて「台湾の少年隊」男性アイドル3人組「小虎隊」がデビュー曲「青蘋果樂園」で少年隊「What's your name?」のカバーをしたり「紅蜻蛉」が長渕剛さんの「とんぼ」のカバーだったのが耳馴染みやすくてカセットテープを良く聴いておりました。また当時はドラマを通じて一部日本の芸能人が中華圏でも人気という時代で、アジア各地で木村拓哉さんや、のりピーこと酒井法子さんの人気は絶大でした。さて、話を元に戻しますと、この記事を書くために調べたら光GENJIは95年に解散とのことですから、特にその後熱心に追っかけていた訳ではない私としては93年の「勇気100%」から解散の報までの間の記憶が殆どない程度なので特別何かを語る資格はありませんが、おおよそ私の学生の頃の背景「時代感」をご想像いただけると思います(ところで、「Graduation」は名曲ですね)

@hajimeanzaiacc

ふと懐かしくなって弾いてみました。訳もなく泣き出したくなるような、感情が揺さぶられる曲です。#光GENJI #平家派 #ジャニーズ #アコーディオン #カバー #安西はぢめ

♬ オリジナル楽曲 - hajimeanzaiacc - hajimeanzaiacc

ジャニーズソングのサビだけカバーのTikTokをマイペースでやってます

さて、今にして振り返れば誠に申し訳ない事に「イヤイヤ就職」して一部上場の立派な会社のやる気ゼロの下っ端の駄目サラリーマンをしていた私ですが、学生時代の専攻を買われ中国の駐在員として現地法人へ出向しました。96〜97年のことです(駐在中に香港返還と鄧小平の逝去がありました。現地で歴史の渦中・目撃者になりました。今はコロナ社会という歴史的転換期の真っ只中いいるので「時代は動いているのだな」と思ったり致します。この記事をのんびりまとめている内にロシアによるウクライナ侵攻まで始まってしまいました。そして更に日本が信じられないくらい貧乏な国に落ちぶれるという追い討ちまで食らっています。当時を振り返るとウソのようなお話し「カナシミ ブルー」

当時、中国の北方特有のハードな飲酒接待を含む連日の長時間激務で、心の逃げ場はホテル住まいの自分の部屋だけになりました。60度もある強い蒸留酒「白酒」を毎晩コップに何杯も一気するのはもうコリゴリです。心身を襲うストレスで体重は十数キロ減り、鎖骨や肋骨どころか骨盤まで見える姿になりました。会社が終わって逃げ帰って来たその部屋では、衛星テレビでNHKを視ることができたので日本語の放送を垂れ流しにして、外の世界から現実逃避。繰り返しますがインターネットの普及するずっと前です。そんな中、ふと目にした番組がBS2の(今思えば)「ザ少年倶楽部」の前身の番組「ミュージックジャンプ」でした。ミュージカルアカデミーの秋山純さんがMCをしてたような時代です。当時私が20代半ば、海外で独りぼっちの私、孤独に追い詰められた危うい精神状態の私は、いくつか年下とはいえ殆ど同世代の子たちが他愛もないゲームをしたり、楽しそうにワチャワチャしている姿をある種の憧れを持って、感情移入しながら羨ましく見ていました(今になってみれば、彼らも過酷な生存競争の中で戦っている戦士だった訳ですが)慣れない外国での職場と、日本の本社支店から押し寄せる見積もりや問い合わせ、現地顧客との頭が痛くなるような商談の数々や、たった一人の日本人上司との息詰まる毎日、それらの現実とはあべこべに、私にとってジャニーズの提供している世界はいつも「楽しい」「元気が出る」「明るい」という数々の光に満ちていました。そして、その現実逃避とは別に、今冷静に分析すると陰キャの私が「本当は羨ましくて仲間に加わりたかった世界」がそこにありました。その後、体調を崩した私はついに会社を辞めて日本に帰ります。「"さようなら"からはじめよう」

大感激【初めてのコンサートはV6】

日本に戻ってから数年は体調を治しつつ、音楽家として生きて行く道を手探りする毎日でした。そんな中「ねぇアンちゃん、お正月ヒマ?」と「30過ぎてジャニオタになっちゃったのよ(本人談)」という学生時代の親友からの連絡がありました。その時はまさか私が「40過ぎてジャニオタになっちゃった」という文章を書く日が来るとは思いもしなかったです。「友達が行けなくなっちゃったから、代わりに横浜アリーナのV6コンサートに付き合ってくれない?」という(誠に結構な)お話しでした(おそらくV6 winter concert 2001 "Very best"の1月4日だったと思います

(このスペースには家のどこかにある筈の、カミセンのシングルC D「LOOKIN' FOR MY DREAM」が出て来たら写真撮ってアップする予定です。「名探偵保健室のオバさん」面白かったですねぇ。)

本心は前から行ってみたかったので、内心嬉しく「ありがとう!ぜひお願いします」と伝えて電話を切ったものの、色々と悩みました。一番頭を悩ませたのは「一体オレは何を着て行けば良いのだ?」と言うことです。これはデート前のウキウキ女子的発想ではなくて、9割方女性ファンがいるであろう会場へ「何を着て行けば浮かないか」と言う切実な悩みでありました。結局悩み抜いて濃紺のスーツに地味なネクタイを締めて行きました。結果、関係者ルックみたいになってしまいましたね、ハイ。周りの男性客と言えばお母さんに連れられた小学生男子をチラホラ見かけた程度だったので、何とも身の置き所がなかった事を覚えています。当時は推しの写真の切り抜きをたくさん貼った紙袋(イッピ袋ってヤツでしょうか?)を持った人がたくさんいて「すげー!知らない文化だっ!」と密かに感動・感心したこともコレを書きつつ思い出しました。誘ってくれたお友達が「ハイ、お年玉!」とくれた【長野クンの団扇】をクルクル手で弄びながら入場までキョロキョロしているのも楽しかったです。肝心のコンサートはもちろん素晴らしくて「すごい!これってこのまま輸出できるコンテンツじゃん!!ジャニーズ凄い!!」と大興奮してその後に会った人ごとに熱弁を奮いました。もう20年も前のお話しです。そしてまもなくV6が解散…感無量です(投稿日は解散後です)先日「私、同じ会場にいましたよー!」と言う友達が出現して話しが弾みました。ジャニーズは人をつなげますね。その日覚えた教訓「何か袋を持って行かないと団扇をハダカで持って帰ることになる」

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2021年11月12日。なにわ男子デビュー日の渋谷スクランブル交差点。オーロラビジョンに「なにわ男子 初心LOVE」とある。そこから中央奥のIKEAの看板の下に目を移すと11月1日に解散したV6が。なんかグッと来る光景でした(ホントは動画を撮りたかったけど「ワ◯チン反対!」とずっとマイクでがなってる団体がいて断念しました)

その後、特にハマるでもなく月日は流れます「HA-RU-NA-TSU-A-KI-FU-YU」

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奥付は2009年11月26日第1刷発行。今やすっかりベテランになった皆さん。「家政夫のミタゾノ」ご出演の伊野尾慧さん「俺の可愛いはもうすぐ消費期限切れ!?」主演の山田涼介さんをさっきまで見ていたので、時の流れに感無量です。

余談【大災害とジャニーズソング】

2011年3月11日、東日本大震災を挟んで俄然リクエストが増えた曲が2曲あります。それは「見上げてごらん夜の星を」と「勇気100%」です。これは自衛隊の音楽隊に勤めている友人も言っていましたから、各地・様々な音楽家に応援歌として演奏を依頼する人がたくさんいたり、またそれに応えて数多くの名演が生まれていることでしょう。私も「勇気100%」は大好きな名曲で、光GENJIリアル世代でもありますし、Ya-Ya-yahも懐かし過ぎます(後にHay! Say! JUMPのファンクラブに入った身としては、なかなか熱い流れです)この曲には何度口ずさんで救われたか分かりませんし、時々演奏もしています。自分の葬式でも流して欲しいくらいです。振り返れば、この頃からまたジャニーズを意識し始めたような気がします。「ありがとう…勇気」

実際ジャニーズの曲を聴いていると「涙くんさよなら」まで遡らずとも、元気が出て前向きになれるような曲が数々あって、それがアイドル自身から発せられるメッセージとして、ファンが受け取り、相乗効果で最大限にポジティブな空気感を作り上げているのかなと思ったりします。今までに延べ何百万、何千万の人々を元気付けて来たのかと思うとつくづく素晴らしいなぁと思います。そしてこれからもたくさんの人を励まし、背中を押し、慰めるのだろうと思います。優しく「マエヲムケ」まさしく「Magic Power」

【私を救った"Key of Heart" 】

さてご承知の通り、新型感染症が世の中を覆います。私自身、2019年暮れには新しいユニットも組み2020年から本格的に稼働しようとしていたプロジェクトに取り掛かっていて、劇的な「良い年」にするつもりでしたがご承知の通り2020年頭には、多くの人が遠い外国の話しだと思っていた目に見えない脅威が日本全体も支配するようになり、2020年3月26日に都内でライブを行ったのを最後に11月18日まで、人前での演奏機会は全くなくなりました。主なフィールドであるレストランは閉じてしまい、ブライダルは延期やキャンセルになり、各種コンサートやイベントなどはもちろん取り止め。仕事は無くなり、まさに八方塞がり。部屋から必要以外は出ることもなく、いつ感染して死ぬことになるかも分からないと恐怖し、もし罹ってしまったら無名の音楽家など跡形もなく居なかった事になると気付いて、急に空恐ろしくなりました。そして、生きていた証を残そうと思い立ちYouTubeに動画を撮り始めましたし、このブログもその活動の一環として書き始めました。

コロナが世間に認識されて以来、外出自粛を求められ、当然の事ながら海外との往来はなくなり、今もかつてのような自由な渡航については見通しが立ちません。仕事は依然としてゼロ。長期化するに従って生きる希望も薄れて行き、鬱々とした心には漠然と「死」への憧れがどす黒く沈殿して行きました。

仕事は回復の見込みが立たず、生徒さんたちも家から出られないのでレッスンはお休み。大してすることもなくYouTubeを眺める日々。そんな時、突然お勧めに上がって来た曲がKing&Princeの"Key of Heart"でした。そもそも横文字タイトル曲という時点で喰わず嫌いの私は食指が動きませんでした。しかも「King&Prince…紅白出てたよな。名前は聞いたことあるけど歌は聴いたことないわ」というレベル。時期的には、永瀬廉さんが出演された実写版映画「弱虫ペダル」のキャンペーンの一環でプロモーションがバンバン打たれていたのだろうと思います。普段ならスキップする動画を、その時はたまたま再生を始めたのでした。そう、たまたま。今振り返っても、なぜだか全く分かりません。「キセキのはじまり」

大した興味もなく始めた動画再生。でもそこで耳にしたキャッチーなメロディと歌詞は、直接的にしかも強烈に響きました。「さあ明日がやってくる もう一人で悩まないで 越えてゆく君の背中は とても輝いている さあ解き放て全てを もうへこんでいる暇はない」このサビの、照れ臭いほど直球ど真ん中の「ザ・青春映画の主題曲」の歌詞にポロポロと涙して、何度も何度も聴いては途方に暮れて乾き切った心に少しずつ染み込ませて行きました。いつもなら拒否反応を示していた筈の青々としたクサい程の歌詞。でも、この曲はなぜか心地よく耳に残り、頭に響き続けました。繰り返し口ずさむ度に生きる力が湧いて来て、いつしか希死念慮は薄まって行きました。そう、まさに命の恩人という所以です。そして遂に「もう事務所や広告代理店のマーケティングにまんまと乗せられても良い!」と受け入れた瞬間にバーンと私の中の何かが弾けました(笑)そして、今まで聴くことがなかった彼らの他の曲もどんどん聴いて行きました。そこから先はお察し案件。広くて深い沼が広がっていました。もちろんその後すぐファミリークラブにも入って諸々課金しております。「僕らのGreat Journey」の始まり始まり。

ともかく、あのどん底を乗り越えられたのは、また少なくとも不安を乗り越えるキッカケになってくれたのがキンプリとの出会いだったのは私の中で大きな出来事なので、もしどこかでお会いする日が来たら、大袈裟でなく「命を救ってくれた」ことの感謝を心から伝えるでしょう。「あの時は、どうもありがとうございました」と。

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今や、陛下・殿下にお仕えする侍従の気持ちすらあります

余談【国分太一さんとアコーディオン】

※そういえば以前、2008年正月に放送された笑点の特番「大笑点」アコーディオンを弾くことになったTOKIOの国分太一さんに、本業のアコーディオンを指導するというお仕事をさせて頂きました。2007年に亡くなった東京ボーイズのリーダーで、アコーディオンの故旭五郎氏のパートを担当して「TOKIOボーイズ」として「謎かけ問答」を演る際のアコーディオンを指導させてもらったのです。その時お会いした国分太一さんは穏やかなお人柄でテレビで見たまんまの方でした。気さくにお話ししてくださって、さすがバンドマン、楽器扱いのセンスも良く、短時間でどんどん上達して行く様子を、教えながら感動して見ていました。その時に、ジャニーズにあまり興味がなく淡々としていた自分は一体なんだったんだろうと説明がつきません。でも今はお陰様ですっかり別人。「本気がいっぱい」

改めて【遂にオープンなジャニーズファンになりました】

そんなこんなで、子供の頃から見聞きしていたジャニーズのタレントさんたちの活躍と自分の「受け入れ」がシンクロして、ジャニーズ好きを公言したところグンと気持ちがラクになりましたし、中学校時代の同級生(ティアラ)と再び親しくなったり、知り合いの子供さんとSnowmanの話題で盛り上がったり、いく先々で「ファミリー」との出会いがあります。同担拒否の方にはまだお会いした事がないですが、まさかオッサンが番協(番組協力。公開録画の番組で観覧したり、決められた手拍子や振り付けで歌番組を盛り上げる要員のこと)に応募するはずもなく、コンサートにも行かず茶の間(ジャニーズ用語でコンサート現場には行かず「家=茶の間」で応援する人のこと)を決め込んで静かに応援しているだけなので、目の敵にされる事が少ないのかも知れません。お陰様で嫌な目に遭った事もなく、ただただ新しい世界が広がりました。昔からの知り合いがエイタージャス民アラシックだという事を教えてくれて、情報交換したりしています。今や男性が「ジャニーズ好き」と言っても奇異な目で見られることは殆どないですし、むしろ憧れている次の世代の若い男の子たちもたくさんいる訳ですから、世の中の変化の後押しにも本当に感謝です。それには様々な分野で身近になってくれたジャニーズのタレントさんたちの活躍やそれを「文化」として作り上げて来た関係者のご努力もあったと思います。感謝。

思えば昔はテレビを点ければ「笑っていいとも」に曜日替わりで当たり前にSMAPの誰かが出ていたり、今なら朝晩の情報番組に他のグループの皆さんもたくさん出演されてますし、ドラマや映画、バラエティ番組で人気を集めていて、世間的に広く主にネガティブな意味で言われていたような「ジャニーズだから」という表現は既に過去のものになっています。楽曲は良い曲も多いし、アレンジも凝ってたり、コーラスワークも素敵だったり、もちろんダンスやお芝居もどんどん進化し続けています。そしてコロナ以降加速しているSNSのアカウント開設や、それぞれのチャンネルでの発信が、より一層裾野を広げる役割を担っていると思います。そのま夢みたいな「素晴らしき世界」を満喫しながら、これからもゆるゆる平和に推し事を頑張って行きたいと思います。

最後に【ジャニーズファンの皆さんについて思うこと】

私が今まで会ったジャニーズファンの皆さんはもれなく感じの良い方々ばかりでした。それはもしかしたら私が彼女らとは違う性別・スタンスだということを予め嗅ぎ取ってのことなのかも知れません。確かに過激なファンによる色々な話しを耳にしますが(今日2022年5月18日にもストーカー行為による逮捕者が出たという報道がありました)、今のところ直接意見されたり、中傷されたこともないので、ビビリな私は本当に有り難いと思っています。この初手でキツいタイプのファンにボコられていたら、きっと今のようにはならなかったかと思うので、自分も含めファンのあり方はとても大切な事だと思います。

大変多くの方が「私はAのファンなんですけれど、Bも良いですよね。もし機会が有ったらAの○○(曲名)も聴いてみてください」のように私のことも尊重して、尚且つ自担のことも控え目にアピールするというパターンの語り口をされる方が多いのです。むしろ私が「おっさんだからライブ会場に行くのは浮きそうでちょっと…」と躊躇していると「同じファンなんだから、遠慮してないで行くと良いですよ!」と背中を押してくれる人にしか会った事がありません。これは本当に素晴らしいことで、新規参入に優しいのがコミュニティーが栄えるためにはとても大事な事ではないかと思います。自分の好きが勝ち過ぎて、他の人を攻撃するようになると自分が孤立してしまうのはもちろん、一番困り、悲しんで、損をするのは他ならぬ大好きな自担なのですから。そしてしっかりと「布教」することは何より大切なことなのは表現芸術に関わる者として日々切実に感じています。マウント取る人が多いところから、人はどんどん離れて行きますから。これから私もマナーを守って自分の好きと誰かの好きが等しく尊重される世界を楽しんで行こうと思います。

さて、私的な長いある種「読まれる事のないファンレターのようなもの」を最後までどうもありがとうございます。読んでくださった皆さんお一人お一人の「好き」が誰にも否定されず、幸せな毎日が続きますようにお祈りしています。

そしてKing & Princeの皆さん、4周年おめでとうございます。これからもお身体に気をつけて最高のエンターテインメントを送り続けてください。心から応援しています。



いつも温かいサポートをどうもありがとうございます。お陰様で音楽活動を続けられます!