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私がめげずに音楽を続けているワケ

「アコーディオンの音色は人を幸せにする」安西はぢめです。飲食店やホテル、テーマパークや大道芸イベントなど数多くの場所で音楽を届けて来ました。その中には忘れられないシーンがたくさんあります。その度につくづくこの仕事が、その日その場で出会った人々のかけがえの無い人生に参加させて頂いているんだなあと思います。今日書くお話しは、きっとあらゆる音楽家に思い当たる事がある出来事で、私一人に起きた特別なことではありませんが、今でも時々思い出す原点になった忘れられないエピソードです。

今回アコーディオンは出て来ません)

北九州市小倉北区紺屋町で生まれたバンド

これは大学を卒業し、新卒採用して頂いた企業でサラリーマンをしていた頃のお話です。中国語を専攻していた私は「海外生活したい」という漠然とした理由で、海外拠点が世界中にある運輸物流系の大きな会社に就職しました。関東生まれ関東育ちの私は、受験地東京で採用されましたが、なんと配属先は福岡県。箱根から西に行ったことがなかった私は「せいぜい自宅から通える横浜港支店辺りの勤務だろう」と勝手にタカを括っていたので、その時は大変嫌だったのを覚えています。しかし、海外生活をしたがっているような人間が日本国内の配属にビックリするのはチグハグでおかしな話です。私は辞令を拝受して、当時小倉北区到津遊園(いとうづゆうえん)近くにあった独身寮へと引っ越して行きました。1994年の話です(中国へ転勤するまで都合3年住みました。小倉はとても住みやすくて良い土地柄で、今でも大好きです)

さて、右も左も分からない初めての土地で日々の業務を忙しくこなしていた頃、夜ご飯を食べによく立ち寄っていた沖縄料理屋さんがありました。通う内にスタッフさんやお客さんとも顔見知りになり、休日に集まって遊んだりする内に、みんなで沖縄民謡バンドを作ることになりました(アコーディオンも九州まで持って行きましたが、当時あまり熱心に練習していませんでした。本気で弾き始めるのは25歳でサラリーマンを辞めた後です。その話しはまた改めて)

沖縄のエキゾチックな旋律は心地良く、私は暇さえあれば曲を聴いて耳から肥料をやり、見よう見まねで三線を弾き歌い、夢中になって曲を覚えて行きました(あの頃は弾いて歌える曲が随分たくさんあったはずなのに、今は何曲も覚えていないのは本当に残念でまた不思議なことです)その当時は阪神淡路大震災の直後で、特に港湾の仕事がとても忙しかった上、自分と音楽の接点はそのバンドだけ。それこそ歌三線だけが生き甲斐で、己の正気を保っていました。東京の師匠や同門の兄弟弟子、音楽仲間たちと一人遠く離れて、音楽そのものにもとても飢えていました。あの頃の私を救ってくれたのはあのバンドの仲間たちと他ならぬ音楽だったことに間違いはありません。今でもとても感謝しています。

常連バンド病院へ慰問に行く

この沖縄民謡楽団のメンバーの中にいた看護師さんが「身内の宴会だけで演奏しているのはもったいない」と、自分が働く病院で慰問をする段取りをつけてくれて、当日は皆さん集会室に集まって聴いてくださいました。プログラムが残っていないのですが、恐らく定番の「安里屋ユンタ」や「兄弟小節」「肝かなさ節」「上り口節」など、それから残っている写真から察するに、男女デュエットで「十九の春」などを演奏したのだろうと思います。ゆっくりの曲に合わせてかすかな手拍子をしてくれるお婆さんや、耳元で何やら囁いてあげている付き添いの方などの様子を覚えています。とても和やかな時間が過ぎて行きました。

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【右端でデュエットを歌う2人は後に結婚して幸せな家庭を築きました】

泣き出したお爺さん

ご承知の方もあるかと思いますが、沖縄本島の琉球民謡のライブは最後に「カチャーシー」と言って三線の早弾きと独特の総踊りで賑やかに締め括ります。慰問もいよいよ最後に近づき「豊年音頭」に始まり「唐船ドーイ」と続くアップテンポな曲の王道メドレーで終えることになりました。予め「踊りたくなった方はどうぞ一緒に踊ってくださいね」と声を掛けてから弾き始め歌い始めたものの、看護師さんたちの手拍子以外ほとんど反応がないままに曲は進んでいきました。すると突然「うぉぉぉぉぉぉぉぉ」と、どこからか絞り出すような声が起こりました。今まで無表情で車椅子に座っていたお爺さんが涙を流して、片手をぎこちなく動かしています。「あ、踊ってる!」と理解した瞬間、考える間もなく衝動的にその人のところへ駆け寄って一緒に踊っていました。その渾身の「踊り」は全てを超越して見る者に生命の輝きを感じさせる煌めきを放っていました。

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【「さあ、いよいよクライマックス!盛り上がって参りましょう!」カチャーシーは全員参加。中央で鉢巻しているのが私。23歳くらい】

まとめ(後で聞いたお話し)

最後に泣き出した患者さんは、脳溢血で倒れ半身付随になっていたそうです。表情もなくリハビリも進まず、手も動かないままだったとか。それでも看護師さんが毎日話しかけをする中で「今度沖縄民謡の慰問が来るよ」と話しかけた時に反応があって、言葉が不自由になった口で毎日何度も「いつ来るの?」「今日くる日?」などとずっと楽しみにしてくれていたそうです。そして感極まったあの瞬間の姿を見て、感情の発露・表情がある事と、殆ど動かなかった手が動いていたことに、病院の皆さん大変驚いたそうです。それを伝え聞き感動して「私という小さなフィルターを通した音楽でさえ、こんなに大きい力を発揮するのだから、これからも私に出来ることがあるに違いない。とにかく止めずに続けていこう」と思いました

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【その後、毎年2回位沖縄へ通うようになりました。懐かしい思い出です】

あれから二十数年経ちましたが、音楽には私自身何度も助けられ、また色々と素晴しい景色を見せてもらいながら今日も共にあります。紆余曲折はありますが、これからも音楽を愛し音楽からも愛されて、曲や楽器にも力を貸してもらって、皆さんに演奏をお届けできるように生きていけたらと思っています。

そんな、どこにでもあるお話しですが、今でも大切に思い出す遠い日の出来事でした。

最後に、大好きな曲「肝(ちむ)かなさ節」より

【ゐきが生まれとてぃ ゐなぐ生まれとてぃ 愛(かな)さねんむぬや ただの葉ガラ】

(大意・男と生まれようが、女と生まれようが。愛の無い者は、ただの葉っぱのようなものだ。コザ中の町社交街「なんた浜」にお邪魔した時、オリジナルシンガーの饒辺愛子さんに解説して頂きました)

【タイトルの上にある写真の、後ろ姿のお爺さんが泣きながら手踊りをしてくれたお爺さんです】

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