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「意味のイノベーション」を再び考えるー「デザインディスコース」と「人権」

山懸さん

往復書簡です。

先月、山懸さんとぼくが初めて出会った日のフェイスブックの投稿がありましたね。2017年7月、大阪梅田の蔦屋で開催されたマザーハウスカレッジで「意味のイノベーション」について話したとき、山懸さんとお会いしたのでした。ベルガンティが東京と大阪で講演し、彼が息子さんと関空からイタリアに帰国の途についた後でした。

あれから4年間、意味のイノベーションとは何なのか?をゼロから説く、いわばエヴェンジェリスト的活動をやってきました。1年半くらい、そうした活動をしたうえで自ら意味のイノベーションの実践版として、ラグジュアリーの新しい意味を探る、ということをはじめました。それなりに考えがまとまってきたので、これは今、来春の本の出版を目指して原稿を書いているところです。

他方、たまたま、この秋に何件か、意味のイノベーションについて総括的に話す機会があるので、山懸さんの上記も拝読しながら、自分の頭の整理をしておこうと思いました。この4年間、さまざまな人のさまざまな意見を見聞し、「ああ、意味のイノベーションについて、そういう風に理解しているのか」と思うことが多々ありました。肯定的に思うことも、否定的に思うことも両方あります。

そのなかで、ここは日本の方々が意味のイノベーションの背景で知っておいていただきたいということが2つあります。これらが抜けていると、どうも意味のイノベーションが矮小化されるというか、下手すると浅いものと思われてしまう可能性があるのですね。

デザインディスコースは常に一番重要なテーマである

ベルガンティはハーバード大学でIT産業について研究した後にミラノ工科大学に戻ります。1990年代後半です。そこで彼が遭遇したテーマがデザインであり、「20世紀後半におきたイタリアデザインの成功の要因を経営学の立場から分析する」ことでした。

有名なイタリア人デザイナーの作品がたくさんあり、それらの何人かはデザインについて語り、時系列に作品を並べたヒストリーの本もたくさんあります。しかし、なぜ成功したのか?デザイナー個人の才能もさることながら、彼らと共に構想をねり、一緒に試作品つくりに夢中になり、それらを公に発表した起業家の実力によるところが大きいというのは、当時の周辺事情を知る人たちには当たり前ながら、これが経営学的分析としてきちんとレポートされていなかったのですね。これを共同研究で取り組んだ結果が、コンパッソ・ドーロというイタリアの権威あるデザインの賞をとることになります。

ベルガンティがデザインの発展を探るとき、「ものに意味を与える」というドイツのウルム造形大で学んだクリッペンドルフの定義を引用するわけですが、まさしく20世紀後半のイタリアデザインはものに意味を与えることで秀逸であった、という結論を導いたわけです。これが意味のイノベーションが指し示すことです。そして、彼が2009年に書いた著書『デザイン・ドリブン・イノベーション』では、この意味のイノベーションは「デザイン・ディスコース」が鍵であると強調します。

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上図です(最近、ミラノ工科大学のデザイン学部のカビリオ・カウテラの講演をみていたら、真ん中のFirmがPeopleになっていて、UsersがFirmに代わっていました。People centered innovationへの流れを反映しています)。いろいろな分野の人が議論を交わすネットワークの存在が有効だとし、リチャード・フロリダのクリエイティブ論が人口100万あたりで効くように、ミラノとその周辺の地域でイタリアデザインが花ひらいたということですね。台所調理道具のアレッシ、照明のアルテミデといったイタリア代表ブランドは、まさしくこのチャートのような空間(日常生活)におけるクリティカルシンキングがビジョンやコンセプトをつくった、と。

しかし、『突破するデザイン』では、1人からスタートしデザインディスコースがあたかも最後のステップにあるかのような印象を与える記述になっています。

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上の右側ですね。だから、デザインディスコースよりも「1人で考える」ことが一番大事だと思っている人が多い、と日本の読者や聴衆の反応をみていて思います。ここからはぼくの解釈ですが、『デザイン・ドリブン・イノベーション』におけるデザインディスコースを大企業初心者向けにブレイクダウンすると『突破するデザイン』のかたちになり、1人からペア、ラジカルのプロセスは『デザイン・ドリブン・イノベーション』においては暗黙知的であると考えます。

少なくても『デザイン・ドリブン・イノベーション』の主役となる中堅や中小企業のオーナー社長を想定した場合、1人で黙々と考えるのはあまりに当然で、そのなかで信頼できる組織内か組織外のパートナーと壁打ち的議論をするのは、言うまでもないこととしか言いようがないでしょう。つまり、この2つのステップを前提として、『突破するデザイン』のサークルと解釈者のステップを『デザイン・ドリブン・イノベーション』ではデザインディスコースのメンバーとみていた、と表現できないかと思うのです。

というのも、『突破するデザイン』にある解釈者ラボは、発売前の最終チェックよりももっと前にある商品開発プロセスと位置づけた方が現実的なんですね。

・・・というわけで、一貫してデザインディスコースが重要な要素であるににも関わらず、『突破するデザイン』だけの知識でデザインディスコースをまともにおさえていない人が多く、やたら「1人で考える」だけに注目が集まっているという現象は「ミスリード!」と言いたいわけです。デザインディスコースに豊穣な議論の源泉があるんです。

実は人権の考え方がベースにあるとおさえるべき

意味のイノベーションが「1人で考える」と強調されると、「そうはいっても組織のなかでそういうのは馴れていない」「組織の上司に潰されやすい」との事例が反例的(!)に浮上します。まず、意味のイノベーションの前提には、次のチャートがこないと話になりません。このベルガンティが使う図は何度もブログや講演で使っています。

2つの三角形


「2019年までのイノベーション政策はエンジニアや科学者が顔になっていました。しかし2020年からはゲームチェンジャーとしての女性や移民の人たちが顔なのです。テクロジーもさることながら、市民がリードすることがイノベーションに鍵であると舵をきったのです」

彼は上の2つの三角形を示しながら、「左が米国型のデザインの考えであり、20世紀型のビジネスのあり方と言えたが、右は欧州型のデザインの考えであり、21世紀型のビジネスです。左は人々がビジネスとテクノロジーに奉仕するが、右では人々を目標にテクノロジーとビジネスが貢献するのです」と説明します。

人間を目的に考えるということですね。前述でも書いたPeople centered innovation あるいはCitizen centered innovation にかかわります。いくら「ヒエラルキーではなく、フラットな組織だよね」と言っていても、人権がどれだけの範囲にどういう重さで関わっているのかに目が向かないといけません。その点に感度の低いところで「1人で考える」が強調されても、大きなコンテクストでの嵌り具合に鈍感だと、結局は「日本では意見を言わないよう教育されている」「同調圧力、強いですから・・・」という後ろ向きのどうでもいい弁解しかでてきません。だから「1人で考える」がメソッド的次元で認識される、というおかしなことがおこります。

これは人の尊厳の話なんです。ブルネッロクチネッリが語る「人は尊厳が尊重されると気づくと、自ずとクリエイティブな力を発揮する」という言葉、マンズィーニがインドのアマルティア・センや精神病棟を廃止に追い込んだフランコ・バザリアの「人はみな同じ」という言葉の裏にあるのは、人の尊厳であり、つまりは人権のことなんですね。

「いや、日本は人権とか苦手ですから」とかまったく意味をなさないセリフである・・・・ということを腹の底から分かってはじめて、意味のイノベーションの最初のステージがある、と理解すべきなんです。意味のイノベーションをメソッド的に捉えることは、いかに人権意識の低さを露呈させることになるか、この点はよく考えて欲しいなあと思います。

ちょっと勢いで書いてしまいました  笑。

写真©Ken Anzai

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