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「哲学者」という職業や社会的身分は(大学においてすら)存在しない。

文化の読書会ノート

納富信留『ソフィストとは誰か』第一部第三章 ソフィストと哲学者

アリストテレス『ニコマコス倫理学』と本書を交互に読んでいる)

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(現代に生きる)私たちも、自身がソフィストである可能性に直面しながら、それを批判し、自らが哲学者となることによってしか、両者の対は明らかにならない。

ソフィストとは誰か? それは、私たち自身の生の選択において、哲学問題となる。

プラトン対話篇全般からソフィストと哲学者を対比すると以下になる。

活動形態 
<ソフィスト> 
ーギリシャ中を旅して回る
ー金銭を取って教育を授ける
<哲学者> 
ー祖国に貢献する
ー自由な交わりにおいて対話する

活動内容
<ソフィスト> 
ー徳の教育を標ぼうする
ー言論の力による説得を目指す
<哲学者> 
ー徳の教育の可能性を問う
ー言論を正しく用いる術を追求する

思想基盤
<ソフィスト> 
ーすべてについての知識を標ぼうする
ー懐疑主義や相対主義の立場を用いる
<哲学者> 
ー不知を自覚し、他人を覚らせる
ー絶対的な真理を探究する

これらの対比がすべて説得性をもつわけではない。

哲学者は、知とは時と場所を離れて決して意味をもたないと考えるが、ソフィストもギリシャの各地の出身であり、そこに留まるべきだったと言うことに正当性はあるのか。しかし、お金を払った若者に対して教授し、その場を去りフォローしないのは教育者の姿勢なのか。

アテナイ出身の哲学者がお金をもらわないのは、特権階級ゆえに可能なのではないか。しかし、アテナイ市民であっても、自由な学究生活の保証にはならないのも事実である。また、知をあらゆる社会的・経済的価値から独立させた領域であるとみなすのが、哲学者の立場でもある。

徳(アレテ―)は「善さ、卓越性」を意味し、ポリスにおいて市民として政治で活躍する能力、訴訟などに勝って生き残る社会的能力を指していた。ソフィストは、この能力を授ける職業人であった。民主政社会における個人の活躍を促進する、と。

しかしながら、民主政だからといって多くの市民に平等に門戸が開いていたわけではなく、家柄や門閥は存在した。よって、無理なことを無理でないがごとくみせて、個人の欲望を煽る存在としてもソフィストは見られたのだ。

とすると、徳とは何について語るべきなのか、との問いがでてくる。

哲学者は絶対的な真理を目指すが、ソフィストは人間が真理に達することができないのを前提に考える。すべての言論は非真理であり、より「ありそうな」言説を提示するのソフィストの術こそが意味をもつのではないか、とソフィストは想定する。その理論的根拠として相対主義があった。

相対主義は、人間が物事の尺度になるので、神を絶対的な存在とする哲学者とは、大きく衝突する。

哲学者とは人間の生のあり方を意味するので、現代においても「哲学者」という職業や社会的身分は存在しないのだ。大学においてすら、である。

<わかったこと>

現実を生きていくうえで、ソフィストの言い分や立場は、極めて実践的である。だが、「実践的」とは何なのか?をソフィスト自身がどこまで問うていたかが、ここの対比での鍵になりそうだ。

ソフィストが闊歩する社会は、ある意味、生活しやすいかもしれない。一方、闊歩しすぎると、(経済的指標やスキルの過剰重視による反省が21世紀にも生まれているように)何らかの社会的な圧迫を生んでいくのも見通せる。

よって、徹底して前提を突いていく存在としての哲学者がいない(もっと言えば、その存在を許さない)社会は不幸である。いや、悲惨である。

ただ、哲学者とは絶対的な真理の「信仰者」というより、絶対的な真理を目指しながらも、そこの客観性に拘る人だ。だから、ソフィストと見分けがつきにくいはずだ。

写真©Ken Anzai



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