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文化とビジネスの関係をどう考えていくと前進しやすいのか(往復書簡3)

山懸さん

返信ありがとうございます。お互いが交差するに至った経緯を丁寧に書いてくださって感謝です。このテーマはおっしゃるように重層的であり、何を文化と呼ぶか、何をテーマにあわせた文化領域とするかは簡単ではないので、両方の自分史にかなり触れないと語る端緒が掴みにくいかもしれません。

少し昔話をしましょう。

大学の文学部の入試の際、「家を出るときに、手と足が一緒に出てた」との山懸さんのエピソードには笑ってしまいました。失礼! 山懸さんは、和歌という特定の対象があって文学に関心をもたれたのですね。前回書いたように、ぼくはまったく違う地点からフランス文学科に入ったので、ある領域や作品から入った人には怖気づく癖があります 笑。

高校から大学の頃、ぼくにとってのヒーローといえば、桑原武夫、花田清輝、林達夫、加藤周一といった人たちで、研究や批評が主体で活動している人たちでした。作家ではないです。どの方も博覧強記で知られ、全体像を描くのに秀逸でした。ぼくが全体への眺望を執拗に追いかけるようになったのは、このあたりに起点があります。

山懸さんがご専門の経営学に関しては、当時、まったく関心がありませんでした。政治学や経済学が視界に入ってくることがあっても、経営学はほぼゼロです。そういう領域があって、どうもそれなりのロジックがあると興味をもったのは、卒業後、自動車メーカーに入ってからです。だいたい、将来は文化サロンみたいなことを主宰したいと就職の面接で言っていたくらいですから 笑。

海外市場向け車両の(間接的に)生産管理や品質管理に日々携わり、次に欧州の自動車メーカーと直接付き合うようになった頃でしょうか、部長が読んでデスクの上に積み上げていた「日経ビジネス」を借りて読むようになりました。1980年代当時、あの雑誌は定期購読限定で、しかも平の若手社員が読むような雑誌ではありませんでした。日経新聞も通勤電車で読むよりも、会社に置いてあるものを読んでいた記憶があります。金融関係にお勤めの方は違ったでしょうが。

MBAのために留学する人もいましたが、若手社員が「経営とは?」と論議したり、勉強会に参加することを一般的と形容するのとは程遠い状況でした、少なくてもぼくの周りでは。友人に誘われて、そういう会に参加したこともありますが、今の若い人がビジネス書を読みこんでいるようには経営をみていなかったと思います。

それでもマーケティングの本がもちろん書店の書棚に並んでいました。だが、ビジネス書という書棚ができたのは1990年代以降と聞いたことがあります。つまりは、いろいろな日常会話で経営やビジネスの言葉を使うようになったのは、この30年くらいの変化なのかなという気がします。

そういえば、ぼくの奥さんは音大ピアノ科卒なのですが、会社経営者の娘である同級生の友人が、「専務とか常務より課長の方が偉いんでしょう?」と1980年代に言っていたというのですね。理由は専務は「長」がつかないからです。奥さんの父親も会社を経営していたのですが、その天然の友人の無知ぶりには驚いていました。でも、極めて経営やビジネスに対して牧歌的な空気があった証にはなるのではないかと思います。

1990年代以降、ガバナンスだとか言われ始めた頃が、一般社員も経営学に目をむけはじめた時代で、ビジネス書を手にするようになる。そして1990年代後半にITベンチャーが増え始めた時期、かなり多くの人がさらに経営学の言説を使いこなしはじめた。しかしながら、その時は既にぼくは日本を離れ、イタリアで「東洋経済」を定期購読していたので、正確に日本のリアルを理解していたわけではないです。

ただ、今にして思えば、多くのメタファーがビジネスとIT関係の言葉に変わりつつあり、あわせて文化って儲かるの?というあけすけな表現が出始めたタイミングなのかとも想像します。

というのも1980年代、バブルで盛り上がったいた頃、文化は大きな話題の対象だったのですね。『「メイド・イン・イタリー」はなぜ強いのか?』でも書きましたが、イタリアのポストモダンのデザインでは機能ではなく意味が問われ、それに沿った表現が日本でも喧伝されていました。日本経済に多大に自信をもった人たちが、あの時に考え始めたのは「これまで、われわれは西洋に追いつき追い越せが目標だった。そしてGDP2位になり、ヴォ―ゲルが言うようにJapan as NO1だ。これからは多機能高付加価値だけでなく、日本文化を表に出した製品を出していかないといけない」ということでした。

確か無印良品のロンドン店がオープンしたのは、あの頃です。前回書いた1970年代後半、大平内閣のときに文化人が集まりソフトパワーに未来を託すという構想が、じょじょに経済界というか産業界に(意図的かどうかは別にして)浸透していき、日本発の文化が意識されはじめたのですね。あまりに生っぽく(笑)、洗練さとは程遠い日本らしい工業機品でした。資生堂のような会社は既に1960年代頃に日本文化を意識したパッケージを出していましたが、家電や自動車はバブルが契機だったように思います。

・・・で、バブル崩壊とともに、日本発の夢は一旦破れることになります。1994年か1995年かよく覚えていませんが、パリのモーターショーにおける日本車メーカーのデザインは惨憺たるものでした。日本テイストではやっていけない、バブル崩壊で新しい開発には余裕がない。いわば、敗北感が強かったと思います。だからこそ、リベンジの機会をその後ずっと狙っていたことは十分に想像がつきます。ポイントは、山懸さんの下記の部分、この危険な発想との認識をどれだけ学習してきたのか?ということになります。

文化というのは、さまざまなアーティファクト(人がつくり出したモノやコトの総体)とそこから醸成されてきた合理性や審美性、倫理性といった判断基準としての〈意味〉の体系として、ひとまず捉えることができると思います。あくまでも、「ひとまず」です。ここには、それぞれの文化の歴史的な重層性が存在します。この重層性を無視して、異なる文化に自らの文化を移し入れようというのは、ひじょうに危険な発想だと感じざるを得ません。

Photo by Ken Anzai

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