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文化は一人称である。

ぼくが2008年に最初の本『ヨーロッパの目 日本の目 文化のリアリティを読み解く』を出したとき、大新聞の論説委員が「この本で語る文化には客観性が欠ける」と評したと間接的に聞きました。

それから1年ほど経ったとき、大学の文化研究の教授が「文化を語るには一人称でいいのですね!」と言ってくれました。

ぼくはオーソライズされた文化論に「客観的で正解がある」と見るのは適当ではなく、それはそれで知識としてもっていることはいいが、ビジネスパーソンにとって必要なのは「自分が前進できる文化理解である」とぼくは主張したわけです。

歴史を知るのは文化を把握するうえで大切でありますが、どこまで知っていくのが良いのか、それは「必要によって異なる」のです。最近はあまり聞かなくなりましたが、「欧州は狩猟民族で日本は農耕民族だから・・・」という表現で分かることは、すなわちこの知識を適用できる日常シーンは極めて少ないのではないかと思います。

さて、「文化をつくろう」「エコシステムをつくる」という表現がよく使われ、ぼく自身も多用するタイプですが、文化とエコシステムはどう違うのか?というところから、今回のポッドキャストはスタートしています。

いつものミラノのカフェは、40度近い酷暑でベランダには人が殆どおらず、屋内に人が集中していたので、かなり周囲の会話が録音されています(そっちを聞いた方が面白い??)。

そういうところで百年前くらいの歴史なら自分の言葉で語れるかもしれないですが、それ以上になると、とんと自信がない。だから何百年の歴史を語れる人間が「上手くやる」という面がないわけではない・・・ということも話します。

実は、ぼくがこのごろ思うのは、以下のコラムに書いたことです。"preserve"という言葉は、個人の記憶を自分の意思で選択していき、それを自分のなかで保存していくとのニュアンスがあり、コミュニティ維持のための保存とは方向が違います。本来、プリザーブの集合がコミュニティの文化であるはずではないか、それが動的な文化ー即ち、保守的な静的状況に陥らないーとの確信をもつようになりました。

言ってみれば、ぼくがおよそ10年前に書いた「一人称の文化」をよりバックアップするとの主張を補強してくれる言葉を見つけた、との感慨をもつのです。

こういう地点に到達してはじめて、例えば下記のコラムで紹介したマンズィーニのデザインモードのチャートにある4象限での「文化をつくっていく」との言葉が違和感を持たなくなってきます。「文化を語る」と「文化をつくる」の間にある意識の乖離を探ると、いろいろなことが見えてきます。

実は、この話、来月日本の下記のイベントで話す内容と絡んできます。


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