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中間のものには名前がないため、両極端が互いに対立しているように見えてしまう。

文化の読書会ノート。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』第4巻 その他の<性格の徳>および悪徳

納富信留『ソフィストとは誰か』と交互に読んでいる。

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「気前のよさ」は財貨(価値が貨幣によって計られる限りのすべてのもの)における中庸である。財貨の所有が取得と保管、使用が消費と贈与に関連する。

気前のよい人がなすべきこととは、財貨を与えるべき人々に与えることである。善いことをなすこと、美しいことを積極的に行うことが徳にふさわしいから賞賛される。適切に使えなかった場合、一層悩む人でもある。

一方、超過は「浪費」で不足が「けち」にあたる。受け取らない人たちが賞賛されるのは、正義のレベルである。与えはするが取得しないといった超過は、単に愚かなだけである。

財貨の支出に関わることで規模が大きな場合、「度量の大きさ」となる。ただし、それは絶対的な量を指すのではなく、行為者と対象のコンテクストによって「規模の点でふさわしい度量の大きさ」を発揮する徳とみなされる。

公共の目的のために名誉心のなりうる限りの支出ともいえ、成果のなかでは永続性のあるものに支出する。それが美しいからだ。

「高邁」「うぬぼれ」「卑下」といったことがらについても、上記と同じような考え方が適応できる。

高邁な人は、小さなことがらに拘らず、実りなき美しきものを所有する性格である。そして、ゆったりとし動作や落ち着いた語り方をする。わずかなことにしか真剣にならない人にとって、慌てたり緊張することが少ないのだ。

こうした性格に超過するとうぬぼれた人になり、不足すると卑下する人になる。また、卑下する人は「引っ込み思案」でもあり、「うぬぼれ」よりもありふれているため「高邁」と対立する。

名誉にかかわる中庸には名前がない。名誉愛と比べれば名誉心の欠如と映り、名誉心の欠如に比べれば名誉愛にみえる。両方と比べれば、なんらか両方にみえる。つまり、両極端がその空席をめぐって争い合う、名前なき中庸が、賞賛されるのである。

「温厚」は怒りにかかわる中庸で、超過は「怒りっぽさ」だ。不足は愚かな人だ。だが、怒りの不足を「おだやか」とみて、腹をたてる人は支配力があり「男らしい」と言うこともある。したがって、その判定は個々の事例に沿って、その都度、くだされるべきだ。

「愛想よし」は、快楽の提供を優先し、他人に苦痛を与えないのが義務だと考えている。そこに自らの利益が挟まれると「おべっか使い」である。その反対に「意地の悪い人」「喧嘩っ早い人」がいる。その中間には名前がないが、「友愛」が最も近い。

「ほら」と「とぼけ」の間の中庸にも名前がない。「ほらふき」は自分に備わっている以上の世評を装う「虚しい人」であり、「とぼける人」は誇大を避けるために現に備わっているものを否定したり過小評価する。

さらに、些細で明白な事柄を否定する人は「欺瞞的な人」である。中間に「真実をいう人」がきて、「品位のある人」とも考えられるが、これは「ほら吹き」と対置する。なぜなら、ほら吹きの方がとぼける人よりたちが悪いからである。

休息における娯楽の時間についても適用しよう。

「道化」は笑いを誘う点で超過し、笑いを嫌がる人は「野暮」「堅物」である。的確な冗談を言うのは「機知に富む人」「臨機応変な人」である。

<わかったこと>

ぼく如きが言うのもおかしいが、アリストテレスの多様な視点と解釈のあまりの見事さに今さらながらに唸った。当然、時代や文化圏によって若干「適用度」のずれる点はある。しかし、それは「誤差」のようなものだ。

現在の人類がほぼ共通してもっている指標をアリストテレスは憎いほどに示している。

このようなところを読むと、読書会でアリストテレスを選んだ狙いが、外れていなかったと思う。科学もテクノロジーもまったく現在と比較にならないほどのレベルの時代にあっても、性格や徳について、ほぼ「見通しをつけている」。

とすると、「問題は時間を超える」と「時間とともに意味が異なる」の2つをどう判断するか?がさらに重要になる。

尚、「スパルタ人の服装は安価で簡素なものであった。このような装いをアリストテレスはある種の気どりとみなしている」(189pの注1)とあるが、カジュアルファッションの肯定的言説が、こんなところにあったとは!もちろん、現代のカジュアルの意味と異なる点はあるにせよ、着眼点としてアリだ。

冒頭の写真©Ken Anzai



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