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ひとたび石を放ったら、もはやその石を取り返すことができない。

文化の読書会ノート。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』第3巻 <性格の徳>の構造分析、および勇気と節制。

納富信留『ソフィストとは誰か』と交互に読んでいる。

「自発的」と「非自発的」が人の行為においては問われる。それは、当の行為のコンテクストで判断されるものだ。非自発的とは強制的であり、行為の始点が外部にあり、強制された者がそれに何も関与しないことだ。

一方、無知による行為は、「意図せずに」の行為だ。自発的なものは、行為の始点が、行為が行われる際の個別的な事柄を知っている行為者自身の内にあるものと考えてよい。ひとたび石を放ったら、もはやその石を取り返すことはできず、石を投げるのは、投げる人自身にかかっている。

選択はその手前にある。人は自分自身によって達成できると考えられるものだけを選択する。他方、願望は不死のような不可能な事柄にもかかわる。願望は目的の方にかかわり、選択は「目的のためのものごと」にかかわる。

思いなしは、偽と真によって区別され、選択は真偽ではなく、善い悪いによって区別される。道理と思考を選択では伴う。

すなわち、選択は熟慮を必要とする。自らの力を通じて達成するが、その結果がいつも同じように達成するとは限らないものごとに、我々は熟慮する。よって、対象は目的ではなく、「目的のためのものごと」だ。

これらの前提条件に、目的とは善そのものである、というのがある。「善に見えるもの」ではない。ここで、「善に見えるもの」と善を見極められる素質が求められることになる。

そして、その善は美しく、そのためにはプロセスにおいて耐えられる人が「勇気のある人」になる。勇気のある人とは、事物の価値に即した仕方で、理性の指示するとおりに恐れを感じ、行動する人だ。

放埓ではない。放埓な人とは、快いものが自分の手に入らないことを必要以上に苦しみ、他方、節制のある人は、それを苦しまない。欲望部分を理性と調和しなくてはならず、節制と理性が目指すべき目標は美しいことだ。

<わかったこと>

何回か書いているが、アリストテレスの本書を今読む意味は、テクノロジーも科学も今のような状態ではない時代に生きる人間が、どこまで自らの経験と頭で知りえてものごとを判断したか、を知ることだ。

今回の部分に、今の時代からするとエリート性や道徳性を窺えるところがある。しかし、それこそコンテクストからみると、エリート性や道徳性との側面を強調せざるを得ない理由があったはずだ。

あるいは、理性や知性を人間のコアにおくことが、これから2000年以上において「正論化」するわけだが、その正論自体を疑う時代に、21世紀の我々は生きている。

今回の文章と関係する、ぼくが書いた記事を2本挙げておく。

以下はアリストレスの中庸論が底流にある。

以下は人の根源的な姿を感じた経験について書いている。



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