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2021年の始まり――ビラヴド

(ハヤカワepi文庫さまに敬意を込めて)

 まずはじめに、一年のはじめにはハヤカワepi文庫を読まないといけない。そういう自分の中のルールあるいは慣例、もしくは習性のようなものがある。誰しもそうである。気づいていないだけで、右足から家を出る。そういう類の話だ。

 そして今年は、トニ・モリスン、『ビラウド』を読んだ。去年、ようやく増刷して、書店で入手することができるようになった。前々から読みたかった作品だ。


作品について

 帯にはこう書いてある。

ノーベル賞作家トニ・モリスンの代表作 ピューリッツァー賞受賞作

 この作品の立ち位置を的確に表している。
 その下には超簡単なあらすじ。

凄惨な過去を持つ元奴隷セサの家に、謎めいた若い女が現れる。

 そのとおりである。でもこれだけじゃほとんど何もわからないのであらすじを書かせていただく。もしかしたら細かいところは間違っているかもしれないですが。

 124番地に主人公?(セサ:元奴隷)は娘(デンヴァー)と二人で暮らしている。幽霊屋敷に。そこにポールDなる男が現れる。彼はセサが以前仕えていたスウィートホーム農園にいた奴隷の一人だ。
 スウィートホーム農園では、主人ガーナーと奥様がいて、黒人奴隷が6人(ポールD、ポールF、ポールA、ハーレ・サッグス、野人シックソウ、セサ)いた。
 セサはハーレ・サッグスと結婚して子供が何人かいた。二人の男の子(ハワード、バグラー)は家を抜け出して行ってしまった。一緒に暮らしているのはデンヴァーひとり。もうひとり、幼くして死んだ赤ん坊がいた。その子供の墓にBELOVEDと7文字刻んだ。一文字ごとに石工に犯されながら。
 ……キャラが多い。が、重要人物はまだいる。ハーレ・サッグスの母(ベビー・サッグス)、つまりデンヴァーの祖母だ。ベビー・サッグスも奴隷だったけれど、息子のハーレ・サッグスはお金で買い戻すことで母を解放した。スウィートホーム農園――ガーナー邸では、奴隷たちはとても暖かく扱われていた。働いた分に給料を払ったりした。人間以下の扱いなどしなかった。だれもセサをレイプしたりしなかった(というか主人がさせなかった)。
 ガーナー氏亡き後にやってきた「先生」はそんなに優しい人間じゃなかった。そしてスウィートホームではなくなった農園から皆逃げ出した。セサは逃げた先でベビー・サッグスに会い、デンヴァーとともに三人で暮らした。やがてベビー・サッグスも亡くなり、冒頭のシーンに戻る。
 セサとデンヴァー母娘の家にやってきたポールDは幽霊を追い払い、家に居着くことになる。デンヴァーは母と知らない男が寝ているのが気に食わない。しかし、やがて彼が家にいるのが当たり前になりかける。そして三人は近くにやってきていたサーカスを見に行った。その帰りである。橋のたもとに見知らぬ少女がいるではないか。少女に水を飲ませ、休ませるために家に連れ帰った。名前を訊かれた彼女はこう言う

「ビラヴド」

 彼女は何者なのか――。そして語られる過去。ポールDが味わった人間を人間扱いしない奴隷の日々。セサがとった過去の行動。罪と罰、破壊と再生、復讐と償い、そういったものをないまぜにして物語は動いていく。
 そんな小説。

 作者トニ・モリスンはアフリカン・アメリカンの女性としては初めてノーベル文学賞を受賞。

 ちなみに登場人物は他にも多数いる。
・エイミー
・レディ・ジョーンズ
・ネルソン・ロード
・エラ
・ジョン
・スタンプ・ペイド
・「もうはいはいしてんの子ちゃん」
・ミスター(おんどり)
・ヒヤボーイ(犬)
・その他
という感じだ。ヒヤボーイが犬だと認識していないと混乱する。たぶん犬で合ってると思う。

感想たち

『それでも夜は明ける』とかの映画で黒人が奴隷として虐げられていたのは知っていたはずなのに、映画よりも凄まじい歴史がここには描かれていた。ガーナー氏は黒人たちに人権を与えるような接し方をしてくれて、そんな人もいたんだと読者は感動する。だからこそ、そうじゃない現実を突きつけられて余計に苦しい。娘を殺すしかなかったセサと復活したビラヴド、本当は誰も苦しまないで生きていける世界があるべきだったのだ。しかしあの時代、そうじゃないのが当たり前だった。昨年、そして今も、アメリカで警官が黒人を射殺した問題と差別に抗議する動きがあるが、2020年にもなってまだ人類はそんなことをしているのだ。本書に描かれている悲劇は今では鳴りを潜めているかもしれないが、(黒人に限らず)人種差別をする(させる)炎は人間の中で消えてはいない。遠い国の昔の話かもしれないけれど、だからこそ無関心でいてはいけない。人間の負の歴史を忘れてはいけない。本書は読み継がれなければならない。
 ここに描かれた奴隷時代の話は作者が実際に体験したもの、ではなく、作者も聞いた話だった。人から人へ、過去から未来へ、物語は語り継がれていく。語り継がれていかなければならない。そういう類の物語だ。語られる途中で、どうしても誇張や空想や幻覚が混ざり合うことはあるだろう。それはしかたのないことだ。どこまでが事実に即した描写なのかはわからない。作者ですらわからない。現実はもっとマシかも知れない。もっと酷いかもしれない。いずれにせよ、作者にここまで描かせるのは歴史の重みがあったからで、想像で補う部分も、想像できてしまうように人間はできているからだ。でも、その想像を絶する、想像を超える世界が海の向こうにあった。いや、この国にもあっただろう。近く、中国の歴史の中にもあるはずだ。だからといって、珍しいことではないからと風化させてはならない。その思いが小説には込められている。だから読まれなければならない。だからピューリッツァー賞なのだ。だから、日本ではしばらくの間、ハヤカワepi文庫で二刷が出るまで入手困難だったのは残念なことなのかもしれない。今回の増刷で、書店には多く並べられていて、本書を知らなかった人が手に取る機会が少しでも増えたことは幸いである。

 本書には、時代背景を考慮して云々とお決まりの古い言葉使いまっせという注意書きが書かれている。もちろんそんなことは百も承知だ。邦訳が最初に刊行されたのが、1990年で、すでに使うべきではない言葉だと規定されていたはずだ。大正や昭和初期に書かれた作品で時代背景を考慮して……というのとはわけが違う。にもかかわらず、ニグロ、やクロンボといった表現を使わざるを得なかったのは、もし仮に日本語で表現するとしたらそういった言葉を当てはめるのが最適だったからで、訳者あとがきでもそのことには触れられている。そんな時代があったことを伝えるために。それはとても大事なことだと思う。そして、そういった言葉を日本語と英語で両方知っていないと訳すのは大変だと思い知らされる。単に英語が得意だけじゃなくて、日本語に対する理解度の深さも翻訳には求められるスキルだと翻訳小説を読んでいて度々気づく。時代背景や当時の文化、その時代の若者の間で流行った言葉など。大変な世界ですな。興味深い。上等な翻訳は膨大な知識と試行錯誤によって生まれる。
 でも、ひとつ気になるのが、「~かい?」という表現。そうなのかい? ならわかる。とてもわかる。しかし、本書ではその限りではない。例えば、パラパラとめくって見つけた291ページには「じゃあ、なぜハーレをサッグスと呼ぶのかい?」とある。「なぜ~かい?」という表現が度々出てくる。出てくる度に僕は違和感を覚える。「なぜ~なんだい?」とかならわかる。「~かい?」でも厳密には日本語としては間違っていないのかもしれないけれど、僕には馴染みのない響きだったし、きっと世間でもそうだ。これは訳者の癖なのか、そのキャラクタの口調を再現するためにそういう日本語になったのか、キャラクタを区別するためにそうしているのか、よくわからない。最初に邦訳が出た90年頃には一般的な表現で、僕がその文化の中で育たずに風化していった表現なのか、きっとそんなことはない。もしそうなら他の多くの作品でも目にする表現なはずだ。出会わないから奇妙な文字列に見えたのだ。なのでその表現が出てくる度に、まただ、と読んでいてリズムを崩された。同じ疑問を持った人は多いんじゃないかと思った。もしかしたら訳される言葉が本来の日本語の表現で、訳者の日本語能力が高すぎるがために一般人には耳に馴染みのない言葉になってしまっているのかもしれない。わからないが、そういうこともあるだろう。

 ところで、この小説の文章の構成だが、時間の流れは現代から進んでいって、合間合間に過去のシーンがフラッシュバックのように挟み込まれる、という形をとっている。個人的にはこの構成はとても好きで、日々の出来事の中に過去の断片を見出したり、忘れていたはずなのに思い出してしまったりということはあるはずだ。というより自然な行為だと思う。忘れていた人の名前と同じ名字を聴いて、その人を思い出したりすることもあるだろう。だからこの構成は自然で、人間の営みを表す表現手法として好まれる(僕に)。時系列順に、過去から語られていっても物語としては自然だが、そんなに台本通りに人は語ることは不可能だと思う。話の途中で、この某という人はうんたらで云々カンヌンといった具合になる。僕はなる。そういえばあれもこんな風の強い日だったと思い起こす。もちろんこれは小説だからその限りではないが、フラッシュバック形式で語ることによって芝居じみた感覚は消えより現実に迫る物語のように感じられた。そういう感じ方が作者の意図したことかはわからない。もしかしたらこういう手法に特別な名前がついているのかもしれない。そんなことは知らない。僕は好きですという話。

 村上春樹がどこかで言っていたけれど、長編小説というのは、様々なテーマを含んでいて当然で、この作品のテーマは、という問いに戸惑わざるをえないというか的はずれな質問だということはこの作品にも当てはまる。
 ピューリッツァー賞受賞だから、黒人差別を、奴隷として扱われた日々の過酷さを描いたものでそこが焦点の一つになっているのはわかる。でもそれだけがこの小説ではない。ただ残酷な人間の行為を描くだけではない。それなら小説である意味はない。純粋に面白い小説に仕上がっていることが大事だ。この小説のジャンルはなんなのか、わからない。ビラヴドの存在はホラーだし、彼女は何者なのかというミステリーだし、人間の尊厳とは家族とは愛とは……そういったものを考えさせるヒューマンドラマだ。凄惨な過去、という現実に対してファンタジックな存在のビラヴド。物語を動かす装置としてのビラヴドと言ってしまえば、たしかにそうなんだけど、セサにとっては蘇った赤ん坊は罪の意識から作り出した無意識の幻覚のようなもので、彼女の狂気や錯乱を、周囲がなだめて抑えて赦しているようにも見える。ビラヴドなんて存在しないのに、皆で幻覚を見ている。過去の呪縛を断ち切るために、罪や後悔や後ろめたさややりきれなさが形をとった存在として彼女は現れ、彼女の消滅は浄化を表しているのではないか。過去を見つめて認めて、前に進むために、消し去るために形を持って現れた。デンヴァーにとって、この先に明るい未来が待っているように物語は終わる。きっとそうなのだろう。時代は変わっていくのだ。2020年になっても差別意識はなくなってはいないけれど、それに抗議することができるのだ。声を挙げて戦う事ができる世の中なのだ。

 だからこそ、 

 同じことの繰り返しになるかもしれないが、人類の負の歴史を忘れないために、本書のような作品を人類は忘れてはいけない。繰り返してはいけないことを繰り返さないために、繰り返し作品に触れることができるようにならないといけない。同様の作品にはもちろん戦争映画とかもある(中には美化しすぎとか誇張し過ぎなものもあるだろうが)。その思いを強く感じたのは、個人的には『カティンの森』という映画で、あまり知られていない(少なくとも僕は知らなかった)出来事を映画化していて、こういう事実を忘れてはいけない、こういう映画は大事だと強く思ったものだ。

 本書の最後に、人から人へ伝える物語ではない、と繰り返しがある。ここでいう物語というのが何を指すのかは読めばわかるとして、その言葉の繰り返しの裏には、人類の負の歴史を忘れてはならないというメッセージでもある(と作者も言っている)。それはもちろん、人から人へ伝える物語ではない、という言葉と矛盾するようだが、本当は人に伝えるべきことなどでなく、伝えなくてもいいはずなのだ。残酷な歴史、悲しい過去、自分たちの胸の内にとどめて、次の世代に残さないでひっそりと消えてしまえばいい。何も知らずに平穏に暮らせればいい。愛されしもの(ビラヴド)として生まれて来たのだ、痛みで惑わせたくはない。永遠に闇に葬り去ってしまうのがいいのだろう。でも知ってほしい。忘れてはならない。その矛盾する思いが人々に物語を語らせ、物語を書かせて、物語を読む。風化させないために、語り継がれることで安らぐ心もある。どんな種類の物語でも、誰かの心のなかに居場所を作ることができるなら、語られる意味はあったし、そういう祈りが形をとったのが本書のような物語なのだろう。今こうして一つの小説について思いを巡らせている、この時間を生み出せたのだ。愛されしもの(ビラヴド)とは物語そのものについても言えることなのかもしれない。

 この小説の中の次の世代の子供達は強く生きることができる世の中に21世紀はなっているだろうか。答えは様々だろう。状況による。情勢による。世界のどこかにはもっとのっぴきならない場所もあるだろう。少なくとも、僕たちはこの本を手に取れる。それは喜ばしいことである。何ができるかとかどうあるべきかとか、そんなことは簡単ではない。僕はそれまで知らなかった世界を知った気になっているだけかもしれない。今はまだそれを積み重ねていくだけだったとしても、それが無意味とは思えない。誰も救えないかもしれない、何も変えられないかもしれない。それはそうだ。でもそう考えもしなかったかもしれない。

 わからない。

 わかることはひとつ。この小説が読めてよかった。

また来年

 きっと2022年も、生き延びることができたら僕は一年の始まりにハヤカワepi文庫を読んでいるのだろう。犬のやつかカズオ・イシグロか、それが何かはわからないが。

 奥付にはこう書かれている。

ハヤカワepi文庫は、すぐれた文芸の発信源(epicentre)です。

 そうです。来年もすぐれた文芸の発信源に触れたい。刺激を得たい。見知らぬ世界を見たい。見知らぬ世界は月の裏側じゃなくて、文庫本の中にある。いつしか自らがすぐれた文芸の発信源になっているかもしれない。今はまだこうして感想文のような謎の文章を書いているだけだったとしても。でも来年も書くだろう。そうしないと一年は始まらないのだから。

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