「湯を沸かすほどの熱い愛」を批判的に語る
色々な方のレビュー見てみたらこんなに賛否両論な映画珍しい。これをどう見るかで人な価値観が分かるんじゃないかというくらい笑
ちなみに私は、否の方でした。
集中力途切れずに見れたし、感動的な作品だった。ただしかし、とても政治的に良くない映画だとも思った。脚本も良いし映画として面白いだけに、かなり問題含みな作品だなぁと思わざるを得ない。
その理由を残しておこうと思う。
娘が制服を盗まれ学校には行きたいないと訴えるシーン。母(双葉)は娘に対して「逃げるな、今逃げたらこの先学校に行けなくなるよ!」と言う。これ私の感覚からしたら一番問題のある教えだと思う。「逃げる」事を否定したからこそ救えなかった命がいくつあるだろうか…という事を思いながら引いた目で見ていた。
娘は「私はお母ちゃんと違う」と切実に訴える。母は「お母ちゃんと違わない」と言う。冷静になって考えて欲しい。これ圧倒的に娘のいう事の方が正しい。当たり前だ、母と娘は別の人格。同じであるはずがなく、この価値観の強要は正直見落とせない問題だと思った。
(例えば、これが母親ではなく父親だったらどう思う?全く印象変わるはず。思春期の娘の気持ちを推し量る事なく自分の価値観を押し付ける最悪な父親だと見えてこないだろうか?)
同じ問題が露呈するのは、旅先でたか足ガニを食べたあと、駐車場で娘の出生の秘密を打ち明けた後の母の行動。あれも客観的に見て虐待と言ってもいいと思う。
これらの行動を「私が亡き後も強く生きれるようにという、愛のある教育」として描いてしまうようなら結構まずいことになるぞ、と思ってみていた。ただ、あのシーンを見ていて逆に「あれ?これつまりこういう毒おや的価値観と無償の愛の境目を描く、そういう問題提起的な事を実はテーマにしてるの?」とも思ったけど、それは解釈としてやや無理ありだった。
あとはオダギリ・ジョーに対する態度について。彼はいつもダメな男役が似合うし今回も役者としてはめっちゃダメで最悪な奴でよかった。で、このダメな男に対して双葉はとても寛容的な態度を取る。サイテーな男なのに、一回頭から血を流させただけでオドガメなし??普通に朝からしゃぶしゃぶ用意して、かつオダジョーはその料理を手伝うそぶりも見せず「ご飯できたよ」と言われるまで、ボーッと座ったまま。「え、優しすぎない?」と素直に思った。
私がとても嫌なのが、こういう双葉の寛容な態度が「良いお母さん」だと社会一般にみなされてしまう事なんだよな。お母さんの無償の愛とか、母の強さとか、結構危険な価値観ですよ?これを見てプレッシャーに感じるお母さん居ないのかな?なんかよくないと思うんだよなー。
家族に血縁関係はいらない。それはその通り、全く異論はない。歪な家族の形をうまく描いている作品だと思う。ただ家族って、求心力のある誰か一人が何かを抱え込んで成り立つようなモノではないし、それを感動的に賞賛されるものとして描いしまってはいけないはず。この作品もどこかのシーンで、双葉自身の欠陥とか欠落とかダメな部分をもっと描いてほしかった。そうじゃないと報われない人が世の中には多いのではないかと思う。
と批判的な事を書き連ねたけど、やはり最後の落とし所までの持っていきかたは秀逸だった脚本の時点である程度価値が見えている感じがした。あとは、宮沢りえが入院後の初めての屋上のシーン。車椅子に座る彼女の体が本当に一回り小さくなったように感じられて、その表現力は素晴らしかった。
ということで、面白いし見る価値ありだしめっちゃ感動するんだけど、感動だけしていたらあぶねーっすよという作品でした。
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