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学び続けないと、好きなことはできなくなる

Youtuber的な ”好きなことで生きていく" ならば、"好きなこと" と自分が生きる "経済システム" について学ばなければいけないのは当然のことですが、ならば、"個人で" 好きなことをやるだけなら、やりたいことをやりたいだけやればいいのか?

僕にとっては、この答えは NO でした。

"消費" ≠ "学び"

僕は物凄く反省しています。

自分なりに世の中の出来事の情報収集を行うこと、新しい技術やメディアに関心を持って体験すること、好きなこと心を傾けて参加すること、そんな姿勢で生きていたら進化することはなくても、少なくとも前進することはできるだろうと思っていました。

しかも、たちの悪いことに自分はそれなりに問題を見出す力があり、その問題に対して解決策をゆっくりにでも導くことができるものだと思っていました。

残念なことに、僕が社会人にやってきた習慣は、自分自身にはほとんど反映されていないという事実に気付いてしまって、社会人1年目の自分と比べて今の自分が大きく前進しているという妄想が2020年末に ふっ と姿を消してしまいました。自分の能力への過信と共に・・・

僕が今まで実行して来たとことは単なる ”消費” でしかなくて、”学び” とは程遠い物でした。もしかすると、昭和ー平成はそれで人生を全うできる社会だったり、僕自身もそれで満足できる人生を歩んできたのかもしれません。それが時代や考え方のありようの小さな変化の積み重ねによってついには意味の無い物になってしまおうとしているのでした。

そんな中、僕が掌に握っていたはずの好きなことを見てみると、それは古びた石ころでした。

いつになったら進化できるんだろうか?

最近、例えば僕の仕事、もしくは好きなことの領域でその分野の一流、二流として活動する人(身内ではなく)と対等に話をできるか?この先できるようになるになるのか? ということを考えます。

その答えはもちろん NO
その理由が "学び" ではなく "消費" に時間を使ってきたから、だと理解しています。

確かに、学生から繰り上がってきた、社会人1年目の時には、その考え方で全く問題なかったかもしれない。
学生の時には、自動的に"学び" が流れてきて、それを"消費" するだけで、前進できた。

(メモ)だから社会人になっても"学び" が強制される環境にいる人は強い

僕はいつになったら、一流の人と臆することなく自分の好きなことの話をできるようになるのでしょうか。進化するのでしょうか。今の延長線上にはそんな人生は多分ありえない。ありえたとしたら、圧倒的な環境の変化によって進化が強制された時でしかないと思う。でも、現実的なことを考えるとそんな環境の変化が起きたとしたら、僕は淘汰される可能性の方が高いんじゃないだろうか。

一流の人とというのは仮に夢の話だとしても、その線上に乗らなければ、その好きなことは過去にこびりついた苔です。

好きなことは逃げてゆく

好きなことを好きであるためには、時間を費やして、知識や体験を更新していくことが必要だと思います。

ただ、別にそんなことしなくても何かを好きであり続けることはできます。でも、それは居酒屋でずっと同じ話をしているおじさんたちと同じです。会うたびに、「あの頃は〜」などと無限ループのような話で盛り上がるわけですが、僕がしたいのはそんなことではない。それは会話で盛り上がるための共通言語としてはとても優秀ですが、その好きなこと自体を語ることとは全く似て非なる物です。

好きなことの知識や体験を更新し続けないといけないわけは、一つです。好きなことが未だに収束していないからです。

好きな"もの"はいつか収束します。好きな漫画はいつか終わり、いつかその物語の考察(メタ的なメッセージも含め)や時代背景や文化的な解釈などは語り尽くされます。それでもなお、もう一度読んで共感するキャラが変わったり、世間的な再流行が起き、その解釈は更新されるかもしれませんが。

その分野...さっきの例では "漫画" という領域に話を広げると、これは過去から未来に向かって無限に開かれた領域であって、その全体像は常に更新され、その概念自体が更新し続けられるので、これを語るためには自分のもつ情報を更新し続ける必要があります。

つまり、限定されたモノではなく領域を語りたいのであれば、情報を更新し続けなければいけない、という事実にぶち当たります。もっというと、そうしないと、そのことを理解することさえできなくなって、語ることもできなくなります。極端にいうと、「学び続けないと、好きなことは話すことさえできなくなる」のです。

好きなことの話ができなくなるなんて、悲しくないですか?でも、事実です。僕は耐えられません。

"学ぶ" こと

でも、憂うことはありません。僕はいい時代に生まれました!幸い、学ぼうと思う人にはその機会を与えられる社会です。図書館に行けばタダで本は読めるし、インターネットがあれば世界の裏側のことまで調べられます。最近ではお金を払えば、自分の尊敬する人から教えてもらうことも可能なことさえあります。

僕は、学ばなければならないと思いました。今からでも学べると思いました。好きなことを好きであり続けるために、自分を語り、誰かと話すために。すごく大袈裟かもしれませんが、できれば退屈な人生にはしたくないと思っています、そのために何をすればいいか問い直したい、それだけです。


”学び続けている人”ってどれくらいいるんだろうか

学ぶ機会はあふれる程に存在する社会ですが、実際にそれらを活用して学び続けている人ってあんまりいないかもしれないなーと思ったりもします。

何が言いたいかというと、ここまで個人的な好きなことの話をしてきましたが、その好きなことは "学ぶ" ことで社会的な希少価値が生じて価値を帯びることもあるのでは? 

多分、全ての個別分野では分野横断的に汎用可能な概念やフレームワーク、周辺領域の情報を含んでいるため、個別分野を深く学べぶと十分に社会的な価値に還元される現象は必然的に起こります。

例えば、好きなことは仕事には生きるか?
この場合、答えは Yes 

さらに言うと、”好きなことで生きていく” というのが難しいことだと言われている世の中は、結構狭い価値観の話で、実は「いやいや、ちゃんと用意されているものや仕組みを使ってやればできんじゃん」って、思えるほどに意外と学び続けている人が少ない可能性はないか?

もちろん "社会の厳しさ" を無視してこんなこと言いたいわけではないのですが、僕は可能性があると思っています。というか、そこに希望を見出したいのです。世の中の構造は才能や20代までの行動で人生の格付けが決定してしまうようにはできていないですよね。

好きなことが好きでいられない格差

好きなことはそのまま放って置くだけでは価値がなくなってしまうだけでなく、好きなことを好きであり続けることさえ阻むことになるということは、これからの社会における格差の問題とも通ずるとおもっています。

あたり前のことですが "学ぶ"  姿勢は、好きなことに対することだけでなくその人の人生の全般に関わる大きな問題です。学ばなければ、無価値になるだけでなく、あり続けることを阻む。これは好きなことのことであり、仕事のことであり、人生のことなのではないでしょうか。

格差社会と言われて久しいですが、中流の我々の分断・格差はこれからと言われております(すでに始まっているとも言われますが)。

社会の資産は絶対量の決まったパイを分けるゲームではなく、パイを増やして社会を豊かにするゲームです。その時に、増えたパイを持たず、今持っているパイだけを持っていると「俺はパイをもらえなかった」と相対的に貧しい思いをすることになります。自分でパイを増やせた人は相対的には富める人となります。そのパイが実際には経済なのか、信用なのか、権利なのか、幸福感なのか、好きなことなのかそれはわかりません。でも、"格差" が意味するところは金持ちかそうでないかだけの話ではなく、他の人生における様々な要素にも大きく関わってくるかもしれませんね。僕が「学び続けないと、好きなことは話すことさえできなくなる」と思ったように。

「好きなことで生きていく」が一部の人の変わった生き方ではなくて、これらからのスタンダードになったらどうしますか?

自分へのエール

今日は大それたことを言いました。今、感じていることを素直に言いました。これは僕の実践の話ではなくて警鐘なので、これから思うように行かないかもしれないし、やる気が失せて何もしないかもしれません。でも、笑えない未来がきても言い訳すんなよ、と自分に釘をさしておきたい。自分へのエールです。あわよくば、誰かのエールにもなれば。


以上が、僕の2021年の抱負でした。

終わり

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