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木が熟す(2)

2 平成三十一年四月十二日(金)
 今日は私がチリに来て初めての売上の日。実はこのお客さんからの受注は四ヶ月前のことだった。私が着任して二ヶ月目、まだまだ沢山の手続きに追われて、営業活動などできていなかった中、ブラジルのお客さんからの紹介ということで、オフィスに電話がかかってきたのだ。

 千代刃物は福岡を中心に主に九州で仕事をしているが、海外にもお客さんがいる。海外のお客さんは基本的に商社へ販売し、ユーザーとの直接的な連絡は行っていないのだが、その数少ない海外商社の一つがブラジルにある。ブラジルはその広大な国土を使った林業が活発だ。そのブラジルの商社が千代刃物のチリ進出を聞き、チリの知り合いの商社を紹介しててくれたのだ。

 チリに何の伝も無かった私にとって本当にありがたい心遣いだった。紹介してもらった商社は、木材用の塗料を主に扱っている会社で、工具の販売は経験が無いとのことだったが、「手始めに」と自社と取引がある工場への営業を行い、少量ロットでの受注を獲得したのだった。

 そもそも私がチリへの駐在を予想だにしていなかった理由の一つがそれだ。今現在全く取引が無い地域に、こんなに弱小の企業がオフィスを構えてどうするのか。全く不可解な決定だった。確かに千代刃物の品質は九州では知れ渡っていたが、日本国内には大企業が山ほどあり、彼らは既に全世界に事業を展開している。そんな中、何故今、縁もゆかりも無いチリなのか。

 そう疑問に思っていた私だったが、チリ赴任前の営業研修中に、営業部の部長からチリ市場の重要性についての話を聞いた。何でも、チリには二つの大きな木工業の企業があるらしい。一つはパスクア社、そしてもう一つがマデサ社だ。そのパスクア社へ現在工具を販売している企業が倒産の危機にあるということで、日本の工具サプライヤーを探しており、偶々参加した日本の展示会で千代刃物を見つけたということだった。

 現在、日本の林業は縮小傾向にあり、年間の新設住宅着工件数は1988年には166万戸だったのが2018年には95万戸、2030年には63万戸まで減少するという予測されている。つまり、ますます木材関係の仕事が厳しくなるというのだ。

 当然、木工用工具専門メーカーである千代刃物も方向転換を迫られていたのだが、その打開策を得られずにいた。そんな中、チリのパスクア社の話が舞い込んだのだ。上層部は会議に会議を重ねた結果、一念発起してチリへの進出を決めた。だが、営業部には外国語が話せる人材が居なかった。そこで白羽の矢が立ったのが私だったというのだ。

 確かに私はトイックで700点を取ったのだが、それはあくまで就職活動用であり、英語が話せるかといえば別の話だ。それなのに、上層部の決定は「佐藤藍那を赴任させる」ということで全会一致となったということだった。

 技術部の部長からも、営業部の部長からも、パスクア社への参入は社運をかけた仕事だという話を何度も聞かされ、私のチリ赴任の目的も半分以上がこのパスクア社への新規参入だった。

「ブエノスディアス!」

 朝の挨拶はスペイン語だ。着任して六ヶ月、少しずつスペイン語を練習して、日常会話はできるようなっていた。
「いよいよ、今日ですね!」
エレナが嬉しそうな顔で言った。
「そうね。ここまで来るのに半年。でもこれからは営業に本腰を入れて受注獲得を目指しましょうね。」

 南米は、日本から物を出荷すると、到着するまでに船便で二ヶ月、航空便でも1ヶ月ほどの時間を要する。つまり、受注してから物が届くまでタイムラグが発生する。それを回避するためには市場調査を行い、ある程度販売するアイテムを絞ってからその製品を在庫化し、その製品の販売に注力するのが一番だ。

 木材の加工というと、鋸(のこぎり)で切ったり、錐で穴を開けたりというような、中学の技術家庭科で学んだ加工を想像するが、実は奥が深く、加工したい形状に合わせて細かく工具を変えていくというのが普通だ。

 チリには、主に四つの木工系の産業が存在する。まず、木材を丸太から製材し、製材した木をまた細かく切って大きさを整えていく製材工場、次に、丸太にナイフを当てて大根の桂剥きのように板を剥いてベニヤ板を作る合板工場、三つ目が木材を細かく砕いき接着剤で固めてボードを作る、ボード工場、そして既に板となっている木材を加工する木工工場だ。

 私がこれから始めなければないのが、この三つのタイプの工場のどこに焦点を当てて営業活動を行うかだ。工場ごとに加工される木材の形状が異なるため、当然販売する工具も異なってくる。大手のパスクア社とマデサ社にはこれら全ての木材加工場があるが、より小さな工場への販売から取り組みを始めるため、まずは参入先を決めるためのマーケティングを行わなければならない。

 「エレナ、営業活動開始のための諸手続きが一段落ついたし、まずは薩摩屋さんと一度打ち合わせをしましょう」

 薩摩屋さんはというのは、今回の受注を獲得してくれた商社で、ブラジルの商社から紹介してもらった例の会社だ。何でも、日系ボリビア人の女性がチリ人と結婚して、チリで始めた商社らしい。ただ、薩摩屋さんの社長は既に現場には出てこないということで、一度ご挨拶した後はチリ人スタッフのアントニオさんと連絡を取っている。
「分かりました。それでは来週、アントニオさんと一度会議をしましょう。」

 その日、千代刃物のチリでの初出荷は滞りなく進み、初めての売上を記録した。帰宅後、一人、チリのお酒ピスコサワーを飲んだ。

「初売上、乾杯。」

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