見出し画像

「ハイヤーセルフ」に「所有者」はいない

日本語では「上位自己」とか「超自我」などと呼ばれる「ハイヤーセルフ」という言葉。「自己」とか「自我」とは自分自身のことだが、それでは「私のハイヤーセルフ」「あなたのハイヤーセルフ」という言い方はできるだろうか?
もちろん「ハイヤーセルフ」とは、個人の自我を超えたところにある。
では、自我を超えるとは、どういうことか。

ここに二人の人間がいるとする。
間柄は、恋人、夫婦、兄弟、親子、師弟、友人同士、何でも構わない。その二人の間にある問題が発生したとする。二人は、そのことについて、何時間も、あるいは何日も、何ヶ月も、場合によっては何年も、話し合いを続け、ついにある解決策に到ったとする。それは、どちらかの立場を取り、どちらかを捨てるということではなく、お互いに妥協するわけでもなく、二人にとって最良の解決策であり、あらゆるアイデアの上位に位置すると思える。
そうした解決策が、長い話し合いの末、まるで雷に打たれるようにして二人の頭に、ほとんど同時にひらめいたとする。一人であれこれ考えていては絶対に出てこなかったと思える解決策・・・それは、暗くて長いトンネルから二人同時に明るみに出たような感覚をもたらす何かだ。
さて、この解決策はどこからやってくるのか。
自分の中から沸いて出たというより、まるで自分を超えた何かからもたらされたと、二人とも思えてならない。つまりこの解決策は二人の人間の「中」にあったのではなく「間」にあったといえる。ここでこの二人に、意識の拡大が起きたのだ。これがハイヤーセルフだ。
三人の間にも、これが起きる可能性はある。百人になった場合も同じだろう。
原理的には、全人類共通の問題に対して、たった一人の個人がその解決策を見出すこともできる、意識がハイヤーセルフに至ることによって。

ただし、ここで注意が必要だ。
たとえば、ヒットラーという一人の狂人の熱狂が伝染するようにして、多くのドイツ国民の間で合意が形成され、「ファシズム」が生まれたとするなら、それもハイヤーセルフのなせる業だろうか?
しかし、いったい誰がヒットラーと膝を突き合わせて、とことん話し合っただろう?
そこには、二人の人間の徹底した対話の積み重ねはない。最良の解決策は、積み重ねの上に成り立つひらめきだ。そこで二人は「思考の山」あるいは「思考の階段」を一歩一歩のぼったはずだ。
もうひとつ重要なこと。
個人の意識を拡張するのではなく、どんどん狭めていく原因のひとつはドグマだ。ドグマが集団化すると「イデオロギー」に発展する。「ファシズム」は究極のイデオロギーだ。「ドグマ→イデオロギー→ファシズム」というエスカレートのプロセスが、そこにはある。つまり、意識が上位に向かうのでなく、狭い範囲に下降する現象が集団的に起きたのがファシズムだ。洗脳やマインドコントロールにも同じ原理が働いている。
ハイヤーセルフへの道は、これとは真逆の道である。個人が個人のまま、全人類規模の集団意識へと至る道である。究極の自己解放であり、究極の洗脳解除だ。

「それでも自我や自己は残るはずだ」って? そう、その通り。
試しに想像してみよう。
「時間」が極まれば「永遠」になる。「空間」が極まれば「無限」になる。永遠・無限の中に時間と空間がある。その逆ではない。同じように、個人の自我・自己が極まれば「ハイヤーセルフ」になる。個人の中にハイヤーセルフがあるのではなく、ハイヤーセルフの中にあらゆる個があるのだ。だから「私のハイヤーセルフ」「あなたのハイヤーセルフ」などという言い方は成立しない。

では、それは「ハイエストセルフ」ではないのか?
いや、「ハイエスト」はどん詰まりであり、どん詰まりはいとも簡単にイデオロギーと化す。「ハイヤー」にはどこまで行ってもその先がある。
永遠と無限には、比較対象も段階もない。

無料公開中の記事も、有料化するに足るだけの質と独自性を有していると自負しています。あなたのサポートをお待ちしています。